花とウタ

オアシスを夢想

heartache

ごそ、という大きめの衣擦れの音とゆすられる感覚で目を覚ました。
毛布に潜ったまま目をこすってぼやっとする視界をクリアにすると、ソレイユが僕を覗き込んで笑っている。跳ねた髪を撫でつけるように触れる。おはよう、シエルと唇が動いた。

「おはよう、ソレイユ」

上半身を起こして僕も同じように彼女の髪を数度撫でてやり、頬を寄せる。ちょんっ、と頬が触れ、満足したソレイユは僕の手を引っ張ってベッドから下ろすと階下を指さした。数度唇だけが動き、驚いたように目を見開く。そして困ったように笑ってから手で言葉を作っていく。
——ご飯、食べましょう。
手元を見つめ、覚えたての手話で真剣に言葉を紡ぐ彼女をぎゅっと抱き寄せる。なんでもないというようにぽんぽんと僕の背を撫でる彼女にはっとし、必死に笑顔を作って見せ、腕を離した。順に梯子を降りる。


梯子に繋がった先のリビングにはすでに朝食が広がっていた。焼きたてパンの入ったバスケットが中央に置かれ、バターと色とりどりのジャムがそれを取り囲んでいる。パンから漂う匂いと暖炉の熱で満たされたリビングの空気は甘くて心地いい。ちょっと見合わせたのち共にぱたぱたと駆け出して、彼女は温めておいたミルクでショコラを作り、僕は洗面で顔を洗う。テーブルの方に戻ってくるとちょうど彼女が出来上がったショコラをふたつ並べたところだった。彼女に椅子を引いてやってから僕も席に着く。

「いただきます」

ほんの少し前はシンクロした二人分の声が聞こえていたはずなのに、今は。
手を合わせ小さくお辞儀をする彼女の唇がかすかに動いた。見なかったふりをして、クロワッサンを彼女の方に取り分けてやる。自分の方には半分に切られたバゲットを取った。そこにバターを一掬いしてまんべんなく広げ、上からアップルジャムを重ねる。その間に彼女はストローベリージャムを垂らしたクロワッサンにかじりついていた。口を離し味わう内に彼女の顔が少しずつほころんでいく。今朝は良く出来たらしい。僕もほほえみ、バゲットにかぶりついた。

「美味しいよ」

思わず口をついて言葉が出たが彼女はこちらに気づかず二口目のクロワッサンをほおばっている。僕も気にしないことにしてバゲットをもう一口。よく焼き上げられたバゲットの香ばしい風味にアップルジャムの甘み、中側のもっちりとした食感も相まって優しい味がする。締め付けられるような胸の痛みはショコラを飲み下して誤魔化した。これも甘くまろやかで美味しい。
そうして彼女がクロワッサンをひとつと半分、僕がバゲットとクルミパンをひとつずつ、クロワッサンの半分を食べきったところでまた手を合わせてお辞儀をする。ソレイユに合わせ僕もそれだけにとどめたが、やはり物足りない感じがしていたたまれない。自分だけでも、声にするべきなのだろうか。ソレイユを見るとどうしたのとばかりにこちらを見ていたので、今度は僕がなんでもないというようにぽんぽんと彼女の頭を撫でた。ありがとう、美味しかったよと頬を擦り寄せる。彼女が身をよじった。くすぐったい、と唇だけが動く。


朝食に使ったお皿を僕が洗って戸棚に仕舞う内に、彼女がテーブルに本をひとつ広げていた。写真に添えられた文字や順を追うように配置されたイラストで手話の本だと判る。ティーポッドに茶葉を二人分まとめて入れ、暖炉上のケトルからお湯を注いだ。蒸らす時間は彼女の好みに合わせて少し長めと決める。たっぷりのお湯が注がれたティーポッドと同じ柄のマグカップふたつをテーブルに並べたところで彼女が顔を上げた。また唇だけが動き、思い直すような間と本をめくっての確認作業のあと腕が動く。
——ありがとう、……えっと。
一言の動作に考え込むような動きが入り、首を傾げた彼女が苦笑いをしてまた唇を動かした。ゆっくり、一音一音、僕が拾えるように。

『シエル』

どういたしまして、と、簡単に答えられたら良かったのに。

「ソレイユ、もう無理しないで、喋ろうとしなくたって良いから、聞こえなくたって良いから、お願いだソレイユ、一緒にいてくれるだけで良い」

抱きしめたソレイユがぽんぽんと背を撫でる。なんでもないと言いたげに、肩のあたりで彼女が首を振る。なんでもなくなんかないのだ。なんでもないはずがない。彼女はまだ僕の背を撫でてくれているが手放せない。ひっ、と喉の奥が鳴った。彼女の肩にうずめた目元がじんわり熱を広げていく。
耳を失い声を失い、彼女は次に何を失うのだろう。目か? 手か? それとも全部? これから僕は彼女の何を失っていくのだろう。彼女に置いていかれることも、彼女を引き留められないことも何もかもがこわいのに彼女は笑ってからっぽの声で僕の名前を呼ぶ。もう何も失いたくない。彼女をもう何も失いたくない。一緒にいてくれるだけで良い。だから無理して言葉を覚えたり無理して名前を呼んだりしないで。お願いだソレイユ。もう、何も、失いたくないんだ。
嗚咽さえ止められず泣き喚く。しかしそれさえ彼女には聞こえていないのだと気づくとなおのこと虚しくて声を飲みこんで泣いた。


一度ぐずりだすと止められない赤ん坊のように長い時間彼女に縋り付いて泣いていた。その間ずっと彼女は僕をあやすように背を撫でつけ、なんでもない、と伝えつづけた。とん、とん、とん、と一定のリズムで穏やかに撫でられるのはさざなみだった胸にも心地よく、僕の声も聞こえていないはずなのに彼女はよく僕のことを判っている、と実感する。不安感の波が過ぎ去ると背を撫でていた彼女の手が頭の方に移り二度ほど撫でてくれた。そして抱きしめられている腕をほどくように身をよじる。ぐちゃぐちゃになった僕の顔を見つめたソレイユはくすくす笑ったあとハンカチを取り出し涙の跡をぬぐい、頬に唇を寄せた。また頭を数度撫でる。離れていく彼女が惜しくて今度は僕からキスを贈った。体を離し、ソレイユと見つめ合う。首を傾け微笑んでくれるので、鼻をひとつすすりながらうなずいた。大丈夫だよ、大丈夫。何が、とはお互い聞かない。聞けない。
縋りついてぐしゃぐしゃにしてしまった彼女の服と髪を軽く整えてやり、名残惜しくてもう一度だけキスをしてから席に着いた。本を閉じた彼女は僕より早くティーポッドを手にして色の濃い紅茶を自分のマグカップに注いで一口だけ飲んだ。その途端おかしくって仕方ないというように笑い出した彼女に紅茶を一口だけもらって飲む。

「苦い! しかも冷めてる!」

目を合わせた僕らの間に、ひとり分の笑い声だけが響く。
2014/04/03
inserted by FC2 system