花とウタ

オアシスを夢想

あなたと生きましょう

目の前に見える森がただ黒く、どこかぞっとした気持ちを拭いきれない。隣で彼女は彼女らしからぬ冷たい目で黒い森を眺めている。
週に一度のお休みの日はソレイユとどこかに行く、というのが二人の決まりだった。どこかと言ってもちょっとしたピクニック程度のものだ。彼女の作ったサンドイッチを持って見晴らしの良い場所まで、というのがお決まりのコース。なのに今朝は彼女がどこにもおらず、慌てて探し回っていた僕のもとに昼頃ひょっこり戻ってきたかと思うと何も持たず僕の手を引いて町はずれの森までやってきたのだった。しかも、だからといって何をするでもなくただ一緒にいるだけだ。どこにいたのかも何をしていたのかも無言のまま彼女は冷たい目で真っ黒な森を見つめるだけ。耐えかねて後ろを見れば夕日の眩しい直射光の中になんとか帰り道が見える。日が沈むまでに帰らなければいけない。彼女はまだ冷たい目で森を見つめている。ソレイユ、と呼び掛けると彼女も小さく笑った。しかしまだ眉間にしわを寄せて彼女らしくない。困ってしまって僕も小さく笑ってみるとソレイユが僕の手を掴んできた。

「ねえシエル」

空気の溜まりやすいこの地には珍しく風が吹いた。冬を告げる冷たい風だ。彼女の触れた指先も冷たく、彼女のハープのように通る声まで震えている。握り返す。
というのに彼女が手を離した。ごめん、と同じように小さく笑って僕の手を振りほどく。

「ソレイユ……?」
「ごめんなさいシエル。……ねえ、さよならをしませんか」

は、として言葉が出てこなかった。ぞっとするほど黒い景色とぞっとするほど冷たかったソレイユの手。息を飲んで何か言わなければと口を開く、のに出たのは震える息だけ。目がうろついてさだまらない。急にどうして、何があったの、と言わなければいけないことはいくつもあるのに彼女の今にも泣き出しそうな目が本気なのだと告げていた。
そんな僕を仕方ないなあとあやすような顔で、自分も泣きそうなのにそれを堪えて、胸元にやった手を強く握りしめて彼女は続ける。

「さよなら、しよう。もう会わないの。理由ならいずれ、わかると思う」

どうして、とやっとのことで吐き出すけれど彼女は一歩あとずさって、いつものように笑った。いや違う。いつものような笑顔を作って見せた。

「理由ならきっとすぐわかるよ。ねえシエルお願い、今は笑っていたいの。私も悲しいし寂しいよ、でもね、悲しいお別れは嫌なの、だから、ねえさよならシエル」

そう言って彼女は黒い森の中へと駆け出して姿を消した。


 ○


森の中を探し回ってもソレイユの姿は見つからず、どうして、という疑問だけ抱えて町へ戻った僕に待ち受けていたのはこれもまた不思議なことに医者からの検診だった。ソレイユと僕がいない、ということで町の方は大騒ぎになっていた、らしい。体調や体の器官をひとつひとつ確かめていく医者と窓をへだてて結果を待つ町の人の様子からなんとなく察した。ソレイユがいなくなった理由は、と医者に聞くとよくあることだとため息をついて教えてくれた。医者いわく、調べているのはある地域にのみ多発する致死病の発症。原因の特定は済んでいる。——特殊条件下での空気感染。

「……感染病患者は隔離、ですか」

そんな簡単なものだと良いけど、と呟いた医者はやたら長いカルテをテーブルに広げてマスクを外した。そしてもう一枚、僕の分とは明らかに書き込みの量が異なるカルテを隣に広げて僕に見せるように体をどけてくれる。のぞきこむが、Soleilの文字だけが読めるが他の文字はなんと書いてあるのかよくわからない。医学用語だから読めるはずもないと笑われたが雰囲気だけはわかった。そして医者は続ける。——君に発症は見られないようだから彼女からは移らなかったんじゃないか。
二枚のカルテと荷物だけをまとめて医者は部屋から出ていき、またさっきと同じようにどうして、という疑問と共にひとり取り残される。


 ○


雪の元で呼吸をするのは冷たい空気が肺に刺さるようでどこか苦しい。ざくざくと音をたてながら進むが景色が変わらないので進んでいる感覚がない。彼女はきっと森を抜けたのだ、と思いひたすら雪道を進んでいるが正しいのか確証もない。
先日はただ森の入り口周辺を探して回る程度だったが、実は森の中をある程度進むと古くなった獣道があり、道を抜けると荒れ地にたどり着く。そこにはひとりふたりなら住める程度の木こり小屋があった。このことは僕とソレイユ、そして町の中でもほんの数人の老人しか知らないことだった。木を切り倒して回った果てに荒れて死んだ、過去の木材産地。お互いの両親を冬のある日流行り病で亡くした僕らを育ててくれた老人のちょっとした秘密だったのだ。昔はあそこに住んでいたのだと言って、たまに連れてきてくれては薪割りの仕方、 暖炉への火の入れ方、整備の仕方を教えてくれた。僕がピアノを本気でやりたいと知ると嬉々として古くなったピアノをひとつ安く譲り受け、その小屋に運んで『これで好きな時間に好きなだけ練習できるだろう』といってくれた。ソレイユが絵を描きたがったときも同じように画材をセットで小屋に運び、アトリエに作り替えてくれた。その老人も亡くしてしまった今、あの場所は思い出が詰まっていて近寄れなくなっていたけれど、彼女ならきっとそこに向かうだろう。そのわずかな自信だけが息苦しい中雪道を進む理由になる。
彼女が別れを言う理由ならすぐにわかったけれど、でも、僕には彼女だけだったのに。

目指した場所にはやはり明かりの見える小屋があって、ほっと息をつく。表に面した窓からのぞきこむとソレイユはピアノのそばでやはり絵を描いていた。こん、と窓を叩く。一瞬だけソレイユの肩が震えた。恐る恐る振り返るソレイユと目が合う。慌てた様子で窓を開け、ようとして手が止まった。

「開けて、ソレイユ」

窓越しに手を重ねるがぞっとするような冷たさに触れるだけで何もできない。彼女が首を振る。確か外へ開くような窓だったはず、と記憶をたどりながらぐっと力を込めて引いてみるとほんの少しの隙間が出来た。鍵まではかけていなかったようだ。ソレイユの瞳が揺れる。

「だ、め、だめシエル、移っちゃう、私、だって」 「理由ならわかってる。でもソレイユ、ソレイユは悲しいし寂しいって言ってくれただろう」

もう一度勢いをつけて窓を引くと、力負けした彼女の体ごとこちら側に開かれた。わっ、と声をあげながら倒れ込む彼女を抱き止める。体が冷たい。僕から逃れようと彼女はもがいたけれど体勢もくずれたままでは上手く力が入らないのだろう、腕の中で彼女が弱々しく暴れるだけに過ぎない。離して、と叫ぶ彼女をいっそう強く抱き締め、肩に顔をうずめるようにして呟く。

「ソレイユ、おいてかないでよ」

今度は彼女が息を飲んだ。しばらくの間のあとにごめんなさいと震える声で吐き出される。

「悲しいし寂しいんだろう? だったらどこへだって迎えに行くよ、迎えに来たよ。ずっとふたりが良いんだ」

シエル、と僕の名前を呼んでは謝る彼女の顔を上げさせると涙でいっぱいで、ぬぐってみても泣き止まない。一度だけ額を合わせてバカだなと囁く。
仕方ないのであやすように何度も涙をぬぐってやっているうちにソレイユも落ち着いたようで涙を飲んでしゃっくりを繰り返しながらも体勢を取り戻し、とにかく部屋へと案内してくれた。玄関を回って部屋に入って、まず暖炉を確認するがやはり火が入っていない。料理用の釜になら火は入れられるのに、と疑問に思って彼女を見ると気まずそうに「どうせすぐだと思ってたから」と目を反らした。何がだ、とか、そんなこと、とか、文句を言うために口が開きかけたが思いとどまり、腐食していない薪を選んで暖炉に放り込む。ソレイユを暖めてやることの方が先決だ。ざっと薪全体にも火が回り、部屋の空気も暖まってきたところで腰をあげ、彼女と向き合った。まだ少し申し訳なさそうにしているソレイユの頬を、思いきり両手で挟みこむ。ばちん、と少し痛そうな音がしたが構わず続ける。

「し、しえる」
「雪が降るような寒い日に悪化しやすいんだから、ここでは絶対に暖炉を使うこと」
「はい、あの、」
「わかれば良いんだ」

両手を離して笑って見せると一瞬だけ困ったような顔を見せたものの、すん、と鼻をすすりながらも、ソレイユも笑っってくれた。彼女らしい笑い方だ。頬に手を伸ばす。

「ごめん、痛くなかった?」
「大丈夫。シエルの手、あったかいね」

微笑みながら、彼女は両手で僕の手を包み、頬を寄せる。空いたもう片方の手を同じように頬に添え、そっと額にキスを落とす。その流れで抱き締めるがソレイユの体はもう冷えていなくて、ずいぶんと暖かい。擦り寄るように、彼女の手が背に回る。
2014/05/06
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