花とウタ

オアシスを夢想

melody of the mellow サンプル

 真っ白な光を感じて薄目を開く。窓の外では淡雪が降り積もってきらきらと光っていた。けれど外の空気が染み込んでいた室内は湿気を含んで冷え切った重たい空気が充満し、長く放置された物置小屋のような埃っぽい臭いまで漂ってくる。深く息を吸い込むこともなく、抱きかかえていたルビーレッドのショールを置いて、ベッドから這い出す。『おはよう』うんおはよう、とどこからか聞こえてくる声に返事をしてから思わずかぶりを振った。ソレイユはもういない。
 ピアノ横の薪をいくつか拾って暖炉に投げ入れ、火を入れる。ピアノを弾く手を凍えさせてはいけない、というのは彼女の持論で、絵を描く手を凍えさせてはいけない、というのは僕の持論だった。彼女のいない今、ピアノも弾けない今、こうして暖を取ることに何の意味があるのかわからない。けれど、こうしないと彼女が怒るようで毎朝起きれば火を入れるし、食事だって作る。『体を冷やしちゃだめってシエルが言ってくれたんじゃない』『ごはんは食べなきゃだめだよ』『ほら、席について手を合わせて、いただきますって』優しい声色で届く声は僕の脳内から響いている気もするけれど、彼女の特等席——ベッドのあたりから聞こえてくる気もしていた。なんにしろ僕はその声が聞こえると逆らえず、暖炉上に置いているケトルから薄いお茶を淹れ、生焼けのパンをかじりながら独りきりで生きている。『シエルは相変わらずパンを焼くのがへただね』そう言うなら君が作ってくれ、ソレイユ。
 味気ない食事を終え、一度お茶を淹れ直し、暖炉前の椅子に腰かける。ピアノを目の前に見る席だが、ここに座ってもピアノを弾こうという気にはなれなかった。むしろ何かを責め立てられているようで落ち着かない。席について早々、居心地の悪さを感じて立ち上がり、ベッド上に置いたままのショールを見下ろす。寒さに弱いというのに絵を描くとき袖口に厚みがあると邪魔だからとあまり重ね着をしない子だったから、ある冬に僕から贈ったものだった。『そのショールのお返しにって、私からはマフラーを贈ったよね』同調する優しい声。こんなにもはっきり声が聞こえるのに彼女の姿はなく、目の前にあるのはショールを握りしめて真っ白になった自分の手だけだ。『ピアノを弾く手をそんな乱暴に扱っちゃだめだよ。痛いでしょう』きっと彼女が本当にここにいてくれたらそっと手を重ねて力のこもった指をゆっくり撫でてくれただろう、と判っているのに、声だけの存在は僕に触れてくれはしない。
 喉の奥が詰まるような感覚を押し殺しながらゆっくりと息を吐き、しかしやるせない気持ちのやり場もなくショールをベッドに向かって投げつける。重い空気の上で思う程のスピードにならなかったそれははらりと舞ってベッドの下へと潜り込んだ。
『だめだよ、シエル』
「うるさい」
『拾って。私の大事なものなの』
「……大事なものなら置いていかないでよ」
 叶うなら僕が彼女の代わりになりたかったし、代わりになれないなら一緒に連れて行ってほしかったのに。こんなふうに独りきりで置いていくなんて絶対にしてほしくなんかなかったのに。
 恨みがましい気持ちを抱きながら声に言われた通りショールを拾うためにしゃがみ込んでベッド下を覗く。埃にまみれてしまったけれどショールを引きずり出すと、それに引っかかって何か小さい本が一冊出てきた。赤い表紙で、割合しっかりした重みがある。ショールの埃を軽く払って椅子の背もたれに掛けてからその本を見返し、よく使い込まれているのか角が取れていることを確認する。『ねえ、覚えてる?』覚えていた。一度町に買い物に行ったときにソレイユがいたく気に入って買ったけれど、それ以来お目にかかれなかったダイアリーだった。僕は結局日記が続かなかったのだと思っていたのだけれど、インクを吸ったとき独特のよれ方をしたたくさんのページがきちんと使われてきたことを示している。きっと購入以来日記を続けていたのだろう。そして僕の前でそんなそぶりを見せなかったと、いうことは。
『迷わないで、開いて、読んで。シエルに向けたものだから』
 きっと彼女の秘密が書かれているのだろうと臆した僕に彼女の声が届いた。ダイアリーを見つめる。確かにここから聞こえた。彼女の声が、彼女の存在をこのダイアリーから感じたのだ。息を飲みながらさらにページを繰る。まず、一枚。

***

 親愛なるシエルへ
 こんちには、お元気ですか? こちらでは少し冷え込んできたものの実りを呼ぶ風が頬を撫でる良い季節ですが、そちらはいかがでしょうか。私は毎日あなたと共に幸せに過ごしています。
 ……ただの日記だと思って、びっくりしませんでしたか? 本来日記と言うのは自分のために書くものだとは思うんだけど、手紙の形で始めてみようと思います。自分に向けてはがんばれない私なので、こっそり(今みたいにシエルがまき割りで外に出ているときにでも)、シエル宛ての手紙を書くような気持ちでやっていけば続くと思ったのです。いつかこの手紙の束をあなたに読んでもらえるようにがんばりますので、シエルもがんばって読んでくださいね。文章がへたくそでも、字が汚くても文句を言ってはいけません。字が丁寧ではなくても、ですよ。いつかシエルに「ソレイユの字は丸くてかわいらしいけど、丁寧ではないね」って言われたこと、覚えていますか? 私はずっと覚えていて、今、気を付けて書いています。今だから言い訳するけど、あのときは絵のアイデア出ししてて、考えてることを文字にするので精一杯だったんです! 仕方ない、の! シエルだって曲のイメージが溢れ出して止まらないときのメモ書きなんて自分でも読めないってこと、私は知っていますよ。
 前書きが長くなってしまいました。ソレイユはうっかりだな、なんて笑わないでくださいね? 手紙の形式を取っていれど、これは日記なので今日起きたことを書いていこうと思います。今日は朝から私はとっても楽しい気分でした。だって、久しぶりのお買い物の日! 楽しみでないはずがありません。買いたいものはたくさんありました。もちろん防寒着や食料(おやつも当然です!)、シエルに弾いてほしい曲のスコア、新しい絵に使いたい画材。お金が余ったらカトラリーを新調しても良いかもしれない。そして、寒くなってくるから何かあたたかくなれるものをシエルに贈りたい。そんなことを考えながら、町まで降りました。やはり町は家よりはあたたかくて、いつも「何かあたたかくなれるもの」と思っていても忘れてしまうのですが、今日はちゃんと覚えていました。シエルが家を出る前にショールを忘れないようにと言ってくれたので。覚えていますか? 去年の冬、あまり厚着をしたがらない私にシエルがこっそり町まで降りてこのショールを買ってきてくれましたね。寒そうだから、と言いながら自分は体中に雪をかぶって鼻先も指先も真っ赤にして、手渡してくれたことを私はきちんと覚えています。受け取ってありがとうと言うと、照れたようにはにかんでくれましたね。そのときからちゃんとお返しをしようと決めていたのです。もちろん、シエルが心配しないようにまだ雪の降らないうちに買いに行こう、と思っていました。今日はそれを実行するべき日です。世界で一番大切な人にこの宝物のお返しをするのだからちゃんと選ばないと!
 プレゼントを選ぶために自由行動を取らせてもらって、市場をぐるりとまわります。家の周りよりも暖かくて優しい空気がそこにはありました。人でにぎわっていて、騒がしくて、にぎやかな場所です。人酔いしてしまいそうなくらい。長くここにいるのは良くないとなんとなく感じて、手早くプレゼントを決めてしまうつもりだった、のですが、思ったよりも時間がかかってしまいました。私と同じでシエルもあまり袖口がだぼっとしているといけないかな、ということでカーディガンやセーターはだめだったし、手袋も片方だけなくしたりしてしまいそうでやめるつもりだったので、何を選んで良いのかさっぱりわからなかったのです。シエル、今、手袋を片方だけなくすのはソレイユの方だなんて思いませんでしたか? そう思っていないのなら良いですけど! いくらうっかりでもそんなことはない、と、思うのです……。
2015/03/08初頒布
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