花とウタ

オアシスを夢想

ショールとマフラー

ふわりと奥から甘い匂いが漂ってくる。
匂いに誘われるようにもぞもぞと布団から這い出し、そっと目を開けると部屋の中はもうすでに明るかった。日は昇ってしまっているようだ。壁掛けのカレンダーを見やるが、つい昨日終わったばかりの先月の分がまだ残っている。あとでめくらなくちゃ。ぐっ、と伸びをすると同時に、ぎっと梯子を踏みしめる音がした。

「あ、起きてた。おはようシエル」
「おはよう、ソレイユ」

梯子を上ってきた彼女との軽いハグで挨拶を済ませ、ベッドを降りる。いつもはせっけんとパンの匂いをさせる彼女の体から、今日はシロップのような甘い匂いがした。階下からはバターの匂いもするから朝食はパンケーキだろうか? 梯子を降りようと振り返ったソレイユがカレンダーに気づいて一枚めくった。破いた紙を数度折り返しメモ用紙を作るとポケットにしまい、梯子を下りていく。先月も見た姿だ。追って梯子を降りる。


「あ、やっぱりパンケーキだ」
「一枚だけ焦がしたかもしれない。ごめんね」
「焦がしたかも、じゃなくて狙って焦がしました、でしょう」
「……まあね」

席に着きながら、パンケーキのタワーを眺める。パンケーキにしては厚みのない、平たく伸びたものが中央のお皿の上に何枚も積まれていた。その中に真っ黒になったものを一枚だけ見つけ、上段を移し替えながらなんとかそいつを引き出す。じっと見つめても焦がされたパンケーキは本当に真っ黒で、隣に置かれたコーヒーとまったく同じ色をしていた。自分の方に寄せ、半分切り取ってソレイユの方に移す。いただきますと声をそろえてからシロップを大量に、それはもう大量に回し掛け、一辺だけ切り取って口の中に放り込むがやはり苦い。
昔読んだ絵本を気にいっている彼女にとって「月に一度のお買い物」はとても大切だ。当日はとても楽しそうにその絵本を追いかける。朝早く起きてコーヒーを沸かして、真っ黒なパンケーキを作って、あっという間に朝食を終えてしまうのだ。焦げたパンケーキを、一口だけ食べて。

「やっぱり苦い」
「そうでしょうね! ソレイユちゃんほら早くお食べ」
「やだ、帰ってきたらお買い物したの広げながら食べよ?」
「それでも良いけど、そうしたらおやついっぱい買って帰るのはなしだからね」
「それも嫌!」

慌てたようにパンケーキを一切れ口に放り込む。けれどよほど苦いのかものすごく渋い顔をして飲み下してしまった。コーヒーを飲むがこれもまた苦かったらしい。涙目でしょんぼりとうなだれながらミルクを足している。ここで笑うと怒られるのは判っているので、ぐっとこらえて僕も目の前の強敵を口に放り込む。苦いというより、もはや食べ物じゃない。でも処分も出来ないのだと思ってなんとか飲みこんだ。


その後なんとか真っ黒なパンケーキを乗り越え、残りのパンケーキタワーをシロップとジャムで食べ切り、使ったお皿を洗って戸棚に戻して、やっと身支度に移る。と言っても普段着のまま出掛けるので特に手間取ることはない。彼女の髪を解き直したり、僕も軽く髪を括りなおしたりする程度だ。あとは彼女がさきほどのメモ帳に買い物リストを書き出し、それを見て僕が回る順番を決定して横に書き足しておけばなお良い。

「シエル、準備できた?」
「できた。暖炉消したし、お金あるし、鍵も持った」
「じゃあいこ!」
「あ、ちょっと待って」

ドアに手をかけたソレイユを呼び止め、手前のチェストから目当てのものを取り出す。

「掛けていこう。外は寒いから」

ショールをソレイユの肩にかけ、またチェストに向き直り自分のマフラーを引っ張り出す。口元を埋めるように巻いて首の後ろでぎゅっと結べば、さきほど暖炉の火を消してしまって冷えてきた部屋の中でも、ずいぶんとあたたかい。振り返れば彼女がありがとうと微笑んでいた。どういたしましてと微笑み、今度は僕がドアに手をかける。
雪原の空気は真冬ほどではないにしろ、身を切るように冷たい。まだ吐く息が白いくらいだ。雪に足を取られがちなソレイユの手を引きながら、ゆっくり雪原を進んでいく。このあたりを抜けたら南向き斜面を下ることになるので雪の上を歩くことはないだろう。

「まだ寒いね、ここ」
「雪のない夏でも雪原って言われるくらいだからね」
「うーん……あったまりそうなものまた買った方が良いのかなあ」

ぎゅっと縮こまりながらもポケットにしまっていたメモ帳を取り出し、僕の方に見えるように角度をつけつつも上から順に読み上げていく。小麦粉、油、茶葉、薬、洗剤——それを受けてだいたいの予算を答えていくがどうにも削れそうなものがない。買うもののランクを落として安く抑える手もあるが口に入れるものや手に触れるものを悪くはしたくない。ぶる、と体を震わせるソレイユを見て思うが口にするのはやめた。
結局リストを二周ほどする内に家の中ではなんとかなっていたことを踏まえ春物の服を買うのをやめ冬物の服を買い足すことで落ち着く。去年の春の終わりに買ったものがやっと着れると思っていたらしいソレイユは春の訪れの遠さに唇を尖らせた。


その後もかなり長く歩いただろうか。緩やかに下る長い斜面を抜けるとすっかり汗をかいてしまうほど体が温まっていた。ソレイユも同じようで、上気した赤い頬で「やっぱり遠いよ、私たちの家」と笑う。そうだねとだけ肯定してマフラーを解いて首元にあそびを作った。ぱたぱたと扇ぐが生ぬるい風が送られてくるだけで火照った体は落ち着きそうにない。やっぱり冬物の服はいらないかもしれない。
目的の市場は思った以上の人ですでにごった返していた。大勢の人間の雑談と店の呼び込みで出来上がった喧騒は音の吸い込まれる雪原でふたりきりで暮らす僕らには縁がなくて、妙にそわそわしてしまう。ソレイユなんかは楽しそうに人ごみを抜けようとして、ああもう人にぶつかる!

「あっ、ごめんなさ、わ、ごめ、すみませ」
「ソレイユ!」

あっちにぶつかればよろけた反動でこっちにぶつかり、こっちにぶつかればその反動でまたあっちにぶつかる、なんてコントを上手に、それはもう上手に繰り広げたソレイユの手をひっつかむ。その勢いで、ぼすんと音が立ちそうなくらい僕の方に倒れ込んできた彼女を抱きかかえ、道の脇、店と店の間に避けた。喧騒に阻まれないよう少し声を張り上げる。

「ソレイユ、まずは」
「ごめんなさい」
「はい。人ごみに慣れてないんだからふらふら歩いちゃいけません」
「う……シエルだって慣れてないでしょう」
「ソレイユより足元しっかりしてます。……どこに向かうつもりだったの」

頬を膨らませたソレイユに痛くない程度のでこぴんをひとつ。少し機嫌を悪くしたのかそっぽを向いてしまったソレイユの手を取りながら問いかけると、先ほど彼女が向かった方を指さした。市場が大きく開いて、広場になっているところだ。真ん中にある大きな木が特徴で、小さな野外ライブステージも作られるような場所。それが?とばかりに顔をソレイユに向けるとまた頬を膨らませる。

「桜咲いてる」
「あ、ほんとだ」

目の前の店の軒先に邪魔されていた視界を少しずらし広場の上方を見上げると淡い紅色の桜が咲いて、おだやかな風に吹かれて花びらが舞っていた。冬のどんよりした暗い空ではなく、青みを増してきた澄んだ空と白い日差し、桜の雨。一緒に見たかったの、と呟くソレイユに少し申し訳ない気持ちになる。ぎゅっと彼女の手を取り、行こうか、と声をかける。

「お店?」
「違うよ、広場の方」
「いく!」
「あ、でもごめん、ちょっと待って」

また人ごみの中に戻ろうとするソレイユを引き留め、自分の首からマフラーを外す。同じようにソレイユからもショールを預かった。小さく折りたたみ、片手に抱える。

「外していこう。ここはもうあたたかいから」
「そうだね」

花が咲くように笑って見せたソレイユの背後でふわりとした春の空気が待っている。桜の降る方へとゆっくり歩き出した。
ネタ元:縹久遠
ソレイユちゃんに付き合って買い物行くときシエル君はマフラーでソレイユちゃんのあれなんだカタカナわかんねあれしてくけど、寒いのは自分たちのステージくらいで外の暖かさに顔を見合わせて笑いながら外せばいい
2014/04/07
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