花とウタ

オアシスを夢想

あなたの指が好き

「ソレイユ、お茶淹れるけど、起きれる?」

シエルが穏やかな顔で覗き込んできたので、私も笑って頷いた。すると彼は無理はしないでと言って額にかかる髪を払いのけてくれたあと、ポッドの方へと体の向きを変えてしまう。
今朝からそこまで体調が良くなかったので、ベッドの上でひたすら寝て過ごした。と言っても顔色まで悪くなってしまうほどではなかったのだろう。シエルもひどく心配することはなく、ざっと体温や動作のスピードを確認したあとは私をベッドにおいて家事をこなしたりピアノを弾いたりと自分の時間を過ごしている。シエルは(さすがに料理なんかは除いて)家事も出来るだけ室内でやってくれるし、呼べばちゃんと来てくれるから私も心細いことはない。
そうして半日ほど過ごしたところで、薬もだいぶ効いてきたのか彼のピアノに合わせて歌をうたったりスケッチブックに彼の後姿を書き留めたりする余裕も出てきたのでシエルのお茶に呼ばれることにした。背を向けたシエルを追うように、出来るだけ心配はさせないように、ばっとベッドから起きあがった。のが、いけなかった。

あ、だめだ、これは。

頭の中で直感したというのに、ぐらりとまわる視界を止められない。
崩れていく体の支えに、と体重を掛けたはずの椅子はそのまま後ろに傾き、私は椅子を道連れにしたように床に倒れ込んだ。だめだシエルが心配する、ととっさに思うのだけど、どうしてだろう、肝心のシエルがどこにいるのか全然感じられない。耳に水の膜でも出来たみたいにどこかはるか遠くの方でシエルが私の名前を呼んでいる気がするだけだ。立ちくらみだ、ただの立ちくらみ、と思ってもひとつ悪いところがあるとずるずるとあちこちが悪くなってしまう。とにかく、と立ち上がろうとそこに手をついた。けれど力が入らずただ床に手が触れただけになる。

「ちが、だいじょうぶ、……」

立ち上がれないことの言い訳のように呟いた言葉が、よけい不調を自覚させる。これは単なるめまいとか、立ちくらみとかいうもので、となお言葉を重ねてみようとすれば今度はひゅうっと短い息が逃げるように飛び出た。声さえ出ない。ああ、本当に、これは。体調のことをきちんと受け入れればさまざまな箇所に神経がいく余裕は出来るものの、体そのものはやはり言うことを聞いてくれない。ぐるぐる視界が回ってどこが上でどこが下なのかもわからなくて、立ち上がることさえいまだ出来ない。指先に血がめぐらないみたいに冷えていく。警鐘を鳴らすように心臓がばくばくと跳ねる。だめだ、だめだ、動けない。シエルが抱きかかえてくれたのか体の水平が少し崩れた。目は開けているのにピントもずれ始めてぼやけている。シエルの瞳が私を見ていることだけわかった。

「しえ、る」

なんとか言葉にしたけれどもう体を起こされていることもつらい。胸のあたりにずっと何かが詰まっていて、話すことも、呼吸もままならない。苦しい。ぼやけていた視界さえもだんだんと息苦しさに襲われ、真っ黒になる。シエルの綺麗なエメラルド色の瞳が色を失い遠のく。


 ○


頬のあたりを、撫でられている。
暖かさと安心を感じる手つきだ。シエルが側にいる、と思ってうっすらと目を開ける。

「ソレイユ……!」

案の定心配そうな顔が視界に飛び込んできて、少しだけ笑ってしまう。そして同時に笑える、ということは大丈夫だ、と実感した。大丈夫だ。まだ生きている。しかしそれさえも力無く映ってしまったのか、シエルの顔は、少し穏やかにはなったものの曇ったままだ。頭を撫でてあげようとして、ずっと手を握られていたことに気づいた。心配性、だ。私の愛しい彼は。

「もう、大丈夫だよ。さっきは少し、めまいがして」
「うん」

まだ手を離してくれないので、仕方なく甘えるように親指の腹でシエルの手を撫でる。といっても握られてるので彼の指くらいしか触れないのだけど。シエルの指は、男の子の少し角ばった長い指をしていて、この指だけが私に触れてくれるのだ。私に愛してると伝えてくれる、言葉選びが下手な彼の、唯一饒舌な部分。だいすきな彼のことば全部。しかし骨の感触と肉の柔らかい感触の中に少しだけ妙なふくらみがある。タコのような硬さではまったくなく、もっと、例えば、そう——すると気づいたシエルが私の手が動かないようにかどうか、なおのことぎゅっと手を握ってきた。両手で、包むように。
びっくりしていると困ったようにシエルが笑った。私は彼の手を撫でていた指の動きを仕方なく止めて、もう片方の手をその手に重ねる。

「めまいは久しぶりだったから、びっくりさせちゃったね。もう大丈夫。ありがとう」
「……本当に?」
「本当に。もう少しゆっくりしてたら落ち着くから、心配しないで。でも、ねえシエル」

重ねた手で、先ほどシエルが隠そうとしたふくらみを探った。びくっと震えたものの彼はなんだかんだ私に荒っぽいことはしないので、決してその手を振りほどくことはなく。簡単にたどり着いたその場所で、二、三度ふくらみを撫でる。——明らかな水ぶくれ。

「火傷、したんだね?」

そうっと覗き込むように尋ねると、シエルは気まずそうに眼を逸らした。

「ピアノを弾く人の手が、だめだよ、こんな……」
「……ソレイユが倒れて、慌ててしまって。ポッドに、手が触れて」
「ごめんなさい、大事なシエルの手を傷つけさせてしまった」
「ソレイユ、違う」

今度は私が目を逸らす番だった。シエルが祈るように私の手を握り抱えて、違う、ともう一度呟いたのだ。それ以上彼を、もっと言えば私のことさえも責めることはできなくて私は無言で解放されるのを待つ。優しい彼の指は、時に傲慢だ。決して私のことを離してはくれない。それで傷つくのは彼だけだ。


ほんの数分のことだとは思うけれどシエルの気持ちが落ち着くのを待って、もう一度お茶を淹れてもらった。私はベッドに体を起こしてそれを飲み、シエルは私の椅子をベッドに寄せてそこで飲んでいる。美味しい、と伝えるとありがとう、と微笑んでくれる。寂しげに。
たまらなくなってマグカップをそっと出窓に起き、彼の手に指を伸ばす。ゆっくりと、緩慢すぎるほどの動作で握ると彼もマグカップを机に置いて握り返してくれた。するすると指先で肌を撫でる彼の指。いつもより形を確かめるように私の手をなぞるのは、彼の焦りだろうか? 大丈夫だよ、と私は出来るだけ、精いっぱいに穏やかな顔を作って彼に微笑みかける。大丈夫だ。私はあなたのそばにいる。あなたに愛されている限り。私の視線に気づいた彼の手が今度は顔の方に伸び、耳の裏あたりから顎のラインを何度かなぞってから、指の腹で唇に触れる。同じように私もシエルと同じ感情を乗せて指で彼の輪郭をなぞった。見つめ合って、キスをひとつ。
ぎゅうっと縋りつくように抱き着いてきた彼の背を撫でてあげながら、私はシエルの手を握る。

「ねえシエル、あなたのピアノが聴きたいな」
「……うん」
「なんでも良い、シエルのピアノで歌いたい」
「長い時間は、嫌だよ、でも」

すんっと小さく鼻をすすってから、シエルはピアノに向かい、スコアもなしに曲を紡ぎ始めた。音は確かに揺れていたしリズムも彼にしては珍しくまばらだ。それでも確かにシエルの曲から伝わるのだ。彼が思うこと、すべて。
だから私は答えるように歌うだけだ。枕もとに置いていたスケッチブックをめくり、彼の後姿を指先でなぞる。優しく聴こえるように声色にも気を遣う。けれど別れを惜しむような長い長い寂しい歌が、私たちを急かしていた。
Happy Birthday(06/22), @apricot_jade !
2014/07/20
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