生殺与奪を知らぬ鳥

 本丸の中に用意された手合せ用の鍛錬場には、換気用の小窓があり、そこから外を覗くと鍛錬場を囲むように植えられた桜が見えた。
 宗三は道場の片隅に足を崩して座って、桜が咲くにはちょうど良いくらいの、三寒四温の春の空気を頬に受けている。手合せは早々に切り上げてしまったが定められた刻までは幾ばくか時間があった。うっかり外に出てなんだかんだ責められるのも面倒で、ただ時間を潰すようにそこにいるのだが、そういったことは得意だ、と宗三は思う。
 飼い殺しにされるように飾られてきた自分だ。退屈を失くす方法は知らされなかったけれど、退屈をやり過ごす方法は幾百年のうちに覚えた。じっと神経を研ぎ澄ませなければ感じられぬような桜の淡い匂いを鼻腔に受けて、宗三は目を閉じる。
 宗三が浸っていた静寂を裂いたのは、ちょうど反対の端に片膝を立てて眺めていた薬研の声であった。
 ——ああ、綺麗だなあ。
 ぴくりと瞼をふるわせて、宗三の視線が薬研へと流される。
「貴方も、そんなことを言うのですか」
「ん? 綺麗なもんに綺麗って言いたいだけさ」
 聞こえちまったってんなら、すまねえな、と悪びれもせず付け足しておきながら、薬研はそのまま宗三から視線を外した。小さく掛け声を呟きながら立ち上がり、放り出されたままであった武具を手早く片付けてしまう。もうここを出ていく気だろうか。まだ時間、は。
 疑問に思うままじっと薬研の手元に宗三が視線をやっていると、薬研は戦装束を脱ぎ出した。自分とは違った意味でしなるような、柔らかそうな玉の肌に思わずぎょっとするが薬研は気にする様子がない。あっという間にいつもの白衣に着替えてしまう。
 溜息をつきながら、貴方、と呼びかけると優しい笑みで返してくれるこの小さい男は、宗三にとって唯一安心できるものであった。
「恥じらいのひとつでも覚えたらどうなんです」
 呆れたような口を利くと、ああこりゃすまねえな、と笑って見せるだけで何も悪びれた様子はなく、ただ自分にも普段着を投げて寄越した。

 ***

 与えられるがままに薬研の目の前で宗三が着替えると、薬研も薬研で宗三に見とれた様子で、細いとは思っちゃあいたがやっぱり綺麗なもんだなあ、と感慨深げに頷くので宗三の方がいたたまれずに肌を隠した。
 薬研が宗三の手を引いて、外に誰もいないことを確認した後、まるで悪いことをするかのような忍び足で(実際、手合せを怠ったので悪いことをしているのだけど)、表に出る。そうして裏に回ってみると、鍛錬場の影に隠れて光は少ないものの、あまたの桜の舞う絶景があった。
「大丈夫、こんな薄暗いとこ誰も来やしねえさ」
 歌うように言い放った薬研は乾いた地面に自分の白衣を広げ、そこに座るよう宗三を促した。唇をヘの字に結んだまま腰を下ろした宗三は、自分より高い視線を持ったままの男を見上げた。座らないのだろうか。わざわざ白衣の端に座ってやったと言うのに。
 急に恥をかかされたような気がして堪らず下を向くと、宗三の頬に手が触れた。薬研がこちらに手を伸ばしている。刀の身の冷たさと人の身の暖かさが共存して気持ちが揺らぐ。
「二人っきりで花見しようってんだ、そうやってちゃもったいないだろう?」
「……」
「ふふ、そうだな、俺っちも花を見ちゃあいないなあ」
 宗三の思うことを見透かしたような薬研の口ぶりに、宗三の眉根がまた一段と深く寄る。そこに軽い口づけを落として応えた薬研は今度こそ彼の隣に座った。そして肩を預けるようにもたれかかって、桜を見上げる。
 薄紅色の風が二人の影を覆っていく。息を詰めていた宗三がゆっくりと吐息を零した。わずかに熱を持った体を抱きかかえて鎮める。貴方、と呼びかけてみるがまだ熱を持った人の身から吐き出される声はどこか甘えたような音色を含んだ。
「貴方、そうやって僕を煽って、楽しいのですか」
「なんだ、煽られてくれんのか」
 意地の悪そうな、しかし軽快な笑い声を上げた薬研には熱など感じられない。きっと無意識か、ちょっとした愛嬌のつもりだったのだろう。はぁ、と膨らんだ不満を体中の熱と共に吐き出せば、薬研がくっくっと体を震わせた。
 ——どうも、この男は自分が機嫌を悪くすると喜んでいるような気がする。
 宗三はなおのこと息を吐く。薬研はまだ笑ってばかりで、せっかくの桜もただ視界を綺麗な色で覆ってはくれるけれどやはり愉快ではない、と宗三は視線を伏せた。
 それを知ってか知らずか、肩のあたりに押し当てた頭を薬研は綺麗だなあと何度目かわからぬ台詞を零す。つい先ほど煽る煽らないの会話をしたばかりだと言うのに、あさましくもこの人の身は、この人の思考というものは、何の意味もない言葉でさえ都合よく拾い上げてしまう。
「貴方、さっきから、そんなことばかり言って」
「綺麗なもんに綺麗って言いたいだけさ。好いた男が隣にいるんだから、なおさら」
 共に同じものを見、同じ時間を共有し、そこで出てくる言葉が肯定的なものばかりで、彼から自分に向けられている感情が負のものであると勘違い出来るほど、宗三は愚かではない。
 すっと背筋を伸ばした勢いで体勢を崩した薬研に覆いかぶさるようにして、宗三は笑う。
「そんな言葉で、僕はなびきませんよ」
「じゃあどんな言葉なら良いのかねえ」
 薬研の視界を桜色の髪が満たし、薬研はそれさえ受けて止めて笑った。どちらともなく重ねた唇の間で熱が行き来する。薬研はこうして唇を合わせるとき瞳を閉じてしまうのが愛らしい、と薄目を開いたまま宗三が笑うと違和感を感じたのか薬研が目を開けた。視線がかち合い、すっと顔が離れる。
「見てたのか?」
「ええ」
「意地の悪い」
 そう短く吐き捨ててはいても薬研の口元は緩く持ち上がって、体を起こして互いに肩を預けてもそのままであった。
 対して宗三は先ほど合わせた唇に指を這わせ、緩やかに口をへの字に曲げていく。足りない、のだ。綺麗なものに綺麗と言いたい薬研のように、安心できるもののひとつを側に、この肌一枚隔てたところに置いておきたかった。それなのに、恥じらいのひとつでも覚えたらという自分の声が蘇って、眉まで顰める。
 やり場をなくし、せめて熱が霧散されるよう、風を目で追う。しかしそっと髪が揺れ視界を侵し、桜の行く末を隠した。髪を掬い上げ、はぁ、と今日幾度目かわからぬ溜息をこぼす。
 それを見て、薬研が宗三の髪に付いた桜の花弁を払ってやりながら、答えた。
「ま、長谷部の旦那もこんなとこまで探しには来ねえだろうし、もうちっと、ここにいようや」
「……誰が、ここにいたいなんて言ったんです?」
「ふふ、俺っちってことで良いだろう?」
 投げかけた鋭い視線を軽くいなされ、宗三は言葉をなくす。この刀はきっと自分の何もかもをわかっているのだ。わかった上で、薬研は宗三に接する。それは野鳥から生殺与奪の権利を取り上げるような、美しく生きる鳥を籠の中で飼い殺しにするのとはまた違った横暴さで。
 宗三の唇から洩れたのは溜息ではなく、勝手な人ですねえ、と薬研を肯定する言葉であった。
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