幸せごはんと三人家族

 これを幸せと呼ぶのだろうか、と密かに光忠は思っている。
 時刻はまだ肌寒さも残る春の木曜日、18時を回ったところ。広めに作られたシステムキッチンに、光忠と大倶利伽羅はいた。慣れた手つきで玉ねぎに細く切れ目を入れ、向きを変えてはまた包丁を差し込んでみじん切りにしていく光忠の隣で、やや緩慢な動きで大倶利伽羅はボウルにひき肉やパン粉、卵を放り込んでいく。
「ハンバーグ、なんだか前も作った気がするねえ」
「たぶん、先々週の木曜日だろう。お前は俺が手伝うときにハンバーグをよく選ぶ」
「あれ、そうだっけ? まあ鶴兄もハンバーグ好きだし良いよね。そろそろ帰ってくるところかなあ」
 刻んだ玉ねぎをフライパンに移しながら会話を振ると、なんでもないというふうに大倶利伽羅が答えた。人をよく見ている子だとわかってはいるがこうして言い当てられると少しばかり気まずい。きっと昔の大倶利伽羅の好物がハンバーグだったから、なんて安直な理由も見抜かれてしまっているのだろう。違うメニューを考えなければ。
 一週間に一度、木曜日の夜はこうして共に夕食の支度をすることが決まりのようになっている。元は光忠や鶴丸が大倶利伽羅の家に居候する形であったので家事全般は学生の身で時間に余裕のあった光忠が、生活費全般は社会人である鶴丸が担当していたが、人の世話になることを嫌う大倶利伽羅のこともあって徐々に各々が出来ることを分担するようになっていた。
 家事は鶴丸も大倶利伽羅もあまり関心がないせいか光忠に頼る場面も多かったが鶴丸の金銭面での負担を少しでも減らすべく大倶利伽羅も光忠もバイトを増やしたため、同時に家を留守にすることも増えた。バイト帰り、仕事帰りで疲労を抱えた上で行われる、一人の食事。しかも三人分の生活のにおいがする家で、だ。
 こんなの寂しすぎる、と言い出したのは光忠である。——週に一日でも良いから、一緒にご飯食べようよ。せっかく家族みたいになれたんだから。
 結局そのときに都合がついたのは木曜日だけだったが、この約束はきちんと続き、鶴丸の帰りを待ちながら光忠と大倶利伽羅で食事を用意して三人揃って食べることが慣習となった。最近は鶴丸の仕事も安定してきて、残り二人のバイトもずいぶん融通を利かせてもらえるようになり、徐々に夕食を共にすることも増えている。
 可愛い弟分と共に作ったご飯を、頼りになる兄貴分とこの弟分と共に食べること。これが幸せではないとしたら一体何を指して幸せと呼べば良いのだろう? その充足感を噛み締めながら、光忠はすっかり水分が飛んでじんわり飴色が広がってきた玉ねぎを、大倶利伽羅の持つボウルに移した。ひき肉の冷たさ、玉ねぎの熱さを確認しながら、大倶利伽羅はそれを捏ね合わせてタネを作っていく。
「付け合せは作り置きのポテトサラダでいいかな? それと、野菜たっぷりのコンソメスープもつけて」
「ああ、それでいい」
 口下手で声も小さいけれど、返事を欠かさないのが大倶利伽羅だ。じゃあハンバーグはお願いね、と言いながらスープ用の鍋をひとつ取り出し、水をためた。そのついでに、リビングの壁にかけられた時計に目を遣る。18時17分。そっと耳を済ませると、ハンバーグを丸める音の他に、家の外からエンジンの音が聞こえてくる。
 鶴丸は木曜日は必ず18時に退社する。そして帰宅にかかる時間はまっすぐ帰って15分とすこし。毎週のことだがあの鶴丸が寄り道もせずこうしてきちんと帰ってきてくれるのだから、自分たちはこの人に可愛がられていて、そして自分はこの人と共にこの弟分をいつくしんでいるのだと、光忠はまた満ち足りた気持ちになる。
 そうしているうちに玄関の鍵やドアの開く音、廊下を渡る軽やかな足音がする。あと数歩でキッチン近くの扉が開かれて、あのいたずらが成功したときのようなとびっきりの笑顔が飛び出てくるはずだ。光忠が冷蔵庫から取り出した数種類の野菜をキッチン台においたところで、ガチャ、とドアノブが回された。
「おい弟ども! お兄様のお帰りだ!」
 案の定である。最上級の笑顔で言い放たれた第一声に、次男の光忠も隠しきれない笑みをそちらに向ける。
「鶴兄おかえり」
「……おかえり」
「うん、ただいま。今日もハンバーグか! ちょっと前だが食べた気がするな!」
 無愛想な方の弟もこの挨拶を返すまでしつこく今帰ったと主張してくることを知っているので、顔を彼に向けないながらもぼそりと長兄を迎え入れる。弟二人から挨拶を返され、満足したように鶴丸は笑みを穏やかなものに変えた。しかしすぐさま鞄おいてくる、と言い残してまたダイニングを出て行ってしまう。
 薄い灰色のスーツから漂って残されたたばこのにおいに、光忠は肩をすくめる。どこかほの甘い、バニラのにおい。健康によくないからと言ってもたばこをやめない鶴丸に臭いが苦くて嫌いだと訴えれば、彼は気に入っていたマルボロをぱったりとやめ、代わりにキャスターを吸い出した。銘柄の問題ではない、と言ってももう聞かないのだろう。
 大倶利伽羅は鶴丸のたばこのにおいを気に入っているのか、彼が近くに寄るとどことなく機嫌が良い。今だって三人分のハンバーグ(いかんせん皆男なのでいつも大判のものが二つずつ、そして明日の弁当用に小ぶりのものも二つずつだ)を丸めるだけの作業なのに口元にゆるやかな弧を浮かべている。ぺちん、ぺちんとリズミカルに鳴る空気抜きの音が心地良い。
 仕方ないな、とでも言うように息をひとつ吐いてから、光忠は鍋を火にかけた。そしてにんじんの皮を剥いて、細かく刻んではまだ沸騰していない鍋に放り入れる。玉ねぎとキャベツも先に刻んでおき、沸騰を待つ間に戸棚からコンソメキューブを取り出した。隣でフライパンに熱を通し始めた大倶利伽羅に場所を少し譲る。
 フライパンにハンバーグのタネが落とされると、じゅわっ、と食欲をそそる音とにおいが立ち上がる。それと同時にまたガチャリとドアノブが回され、カッターシャツを脱いでTシャツを着た鶴丸が戻ってきた。スラックスはそのままである。
「ハンバーグのソースが飛んだらどこぞの洗濯係に怒られるから着替えてきた」
「怒るよ、仕事着が汚いままなんてとんでもないしね」
 軽口をたたき合いながらも光忠は沸いた鍋に残った具とコンソメキューブを入れて一混ぜし、鶴丸は水屋から茶碗や皿を取り出してキッチン台に置いた。そして同時に取り出していた色違いのランチョンマットと箸、スプーンはテーブルの方に運んでおく。
 スープの方に塩とこしょうを足して味を見る光忠の横で、大倶利伽羅はハンバーグを裏返して位置を調整している。そしてフライパンに蓋をしたところで、ちょうど炊飯器が炊きあがりを知らせる音が鳴った。ピーッと響く電子音に、彼は光忠の方を見上げる。
「すまない、焼き上がりが間に合わない」
「それくらいどうってことない。急ぐより、美味いもんを頼む」
「……っ、おい!」
 炊飯器からご飯をよそおうとしていたのか、片手にしゃもじを持った鶴丸が、背中側からわしゃわしゃと大倶利伽羅の頭をかき回した。驚いて振り返った大倶利伽羅が、不服そうに鶴丸を見上げる。子供扱いするな、とでも言いたげな目を横から眺めて、光忠は笑いを堪えきれずくくくっと息を漏らす。大倶利伽羅の目がこちらに向いた。まるで睨みつけているかのようである。それを見て鶴丸が再度腕を伸ばすが、思い切り良く、それはもう全力でパシンと手をはじかれた。ふん、と鼻を鳴らして大倶利伽羅はフライパンに向き直る。
 どうしようもなくこの末の弟が愛しいのだと、鶴丸と光忠はそれぞれ手と口元を押さえながら視線を交わした。共に食事の準備をし、共にそれを食べること。共にいられること、共に家族となること。こんなところに幸せは転がっているものだと、体中に広がる充足感から笑みを隠せない。
 そうやって末弟を二人で見守るうちに全て焼き上がったハンバーグを、レタスを敷いた皿に盛り出来合いのソースをかけ、ポテトサラダも添えてテーブルに運ぶ。スープも皿に移して、炊きたてご飯の湯気を感じながら、全員で席に着く。大倶利伽羅と並んで光忠が座り、その向かいに鶴丸、といういつもの席順だ。
 食事の前のかけ声は、光忠の役目だ。手を合わせて、軽く目を閉じ、いただきます、と一言。それに倣って鶴丸も、大倶利伽羅も手を合わせ、声をそろえて言う。
「いただきます。」
 時刻は、家の中にいれば肌寒さも忘れる春の木曜日、18時30分を回ったところ。少し早いうちに始まる夕食で、語られるべきことがたくさんある。
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