深夜二人でお酒

 リビングについた明かりだけが妙に眩しい、しんと静まった部屋の外から、エンジンの音が聞こえてくる。
 木曜日はきっちり定時退社してくる鶴丸だが、他の曜日となるとそうはいかない。繁忙期に至っては電車を使わない通勤スタイルだからと言って終電を一切気にしない仕事量が降ってくることもある。そういう日の、帰宅時間の遅いこと遅いこと。
 鶴丸は夕食を買って済ませてしまうらしく、夜食も要らないと言われている。家ですることはほとんどないのだ。夜遅く帰ってきて、眠り、また朝早くに出社する。何かすることがあれば、と光忠も(もちろん、大倶利伽羅も)思っているが何をするでもなく鶴丸の方が追われるように家を出るのがここ最近の常だった。
 エンジン音を確認した光忠はぱっと時計を見上げて時間を確認する。まだ一時を回っていない。近頃にしては良い方だ。兄を迎えようと腰を上げたところでガチャリと鍵の開く音が届く。そして控えめな足音。
「ただいま。光忠おまえ、起きてたのか」
 ひょこ、と部屋を覗くように現れた鶴丸の顔に、光忠が頬を緩めた。
「おかえり。くりちゃんはもう寝ちゃったよ。今日早かったね」
「一期がな、一期がすごかったんだ」
 控えめな声量で答えながら鶴丸は鞄とコンビニの袋をテーブルに置き、するっと脱いだスーツを椅子の背もたれに掛け、そこに座る。そしてその流れでとん、とんと小さな音を響かせて袋から取り出されるものを、光忠が緩めた頬をほんの少し引きつらせて眺めた。
 その光忠をまったく気にせず、鶴丸は続ける。
「ここ最近の帰宅の遅さに見かねた鯰尾と骨喰……ほら、一期の弟の、高校生の方。あれが『社会科見学させに来ました』とか言って小学生の方の弟を職場に連れてきてな。一期のテンションがうなぎのぼりだったのは言わずもがな、平野がお茶まで出してくれて鶯丸まで効率あがった。ありゃあ良い。毎日でも連れてきてもらいたいもんだ」
 とん、と最後のひとつが机に置かれる。長い台詞を吐き切った鶴丸はそのうちの一つを手に取り、プルタブに指をひっかけた。
「ま、明日もというより今日も出勤だが仕事に区切りもついたし花金だ。飲もう」
 ずらりと並んだ缶ビールの類に光忠が溜息を吐くのと、鶴丸が一口目を盛大に煽って至極楽しげで酒臭い息を吐くのはほぼ同時だった。

 ***

「ほら鶴兄、アルコールだけ飲んでちゃ変に酔いが回るよ、何か胃に入れて」
 光忠が用意した肴がテーブルに並べられるのをへにゃりとした笑みで鶴丸が迎え入れた。肌の色が薄いものだからはっきりと血色の良さが浮き上がって、一目で酔いがわかる顔になってしまっている。少し遅かったか、と光忠が並んだ空き缶の量を見て思う。まとめて運ぼうとは思わずせめて出来上がったものから先に出すべきだった。
 すでに空いた缶を机の端にまとめてゴミの日を思い出しながら、光忠が鶴丸に箸を手渡すと、彼はぱちん、と大きな音を立てて手を合わせた。
「いただきます」
 この挨拶だけは決して欠かさないのだから、光忠も報われる。一本もらうね、とグレープフルーツのチューハイを手に取り、ぷしっと小気味よい音とともに蓋を開ける。鶴丸は好んでチューハイを飲むわけではないから、これは自分用なのだろう。ぐっと煽ると喉に落ちる炭酸の痛みと冷たさが心地いい。缶の肌に出来た結露を撫でとりながら、光忠も箸を手に取る。
 テーブルに並んだのは、冷蔵庫に常備されている個包装のチーズに野菜のマリネ(このあたりはお弁当にもよく入れている)、今にもはち切れそうなくらいに皮がパリッと焼かれたソーセージ、そしてほのかに焼き色のついた卵焼き。鶴丸は即座にソーセージへと箸を突き刺し、肉汁を飛ばしていた。
 即席の割にはそれっぽいものが出来た、とほくそ笑む。帰りの遅い鶴丸に出来ることはこうしてたまの晩酌に付き合ってあげることなのかもしれない。おつまみのレシピをもう少し考えようかなあと思っていたところで、鶴丸が「うまい!」と声を上げた。
「肉! 焼けたあったかい肉! ひさしぶりだ、ここ最近コンビニのから揚げしかあたたかい肉なんて食ってなかった」
「ソーセージくらいいつでも焼くから、言ってね?」
 マスタードつける、とキッチンに走った鶴丸を見送りながら声を掛けると、お前も普段は寝てるしソーセージくらい自分で焼けると鶴丸の声が飛んできた。
 今日は起きていて良かったと思いながら光忠もマリネに手を伸ばし、口に含む。しゃくしゃくと咀嚼を繰り返すが口に広がるのは見知った味だ。酢のおかげで傷みにくいマリネは常備菜として便利で光忠も気に入って作っているが、たまには具材を変えてみるべきかもしれない。
 お弁当にも入れてるし飽きてるかもしれないなあ。パプリカやかぼちゃを使って色鮮やかに仕上がってはいるが、結局食べるものなのだから、味に飽きてしまっては元も子もない。次に作るときは何を使うか心に秘めつつもじっとマリネを見つめていると、わっ、と鶴丸がいたずらっぽい笑顔で覗き込んできた。
「何考えてたんだ、ぼーっとして」
「ああ、いや、なんでも……」
「安心しろ、光忠の飯は美味いぞ」
 くしゃ、と頭を撫でるようにして髪を掻きまわされる。顔を真っ赤にしながらもやはり兄ぶる鶴丸の顔はどう見ても楽しそうで、しかし目元のくまが仕事の疲れを明らかに表していた。光忠も笑みを返しながら、早く寝かしつけるべく、そのために宴会を手早く終わらせるべく「もっと飲もう」と声を上げた。どうせ飲み切るまで寝ないつもりなのだから早く飲ませ切った方が良い。
 二人で新しい缶を開け、乾杯とふちをぶつける。そして酒を一口、つまみを一口。その合間合間に挟まれる鶴丸の仕事の愚痴と社内の笑い話があれば、深夜一時もとうにまわっているというのに十分な酒の席の完成だ。
 話にも区切りが出来たところで鶴丸がひょいっと口に卵焼きを放り込んで、もぐ、と噛みつぶして味わう。そして、ふわりと顔をほころばせた。何度か口を動かし、飲み下す。
「甘い卵焼きってのも、やっぱり良いな」
 口の端を親指で拭って鶴丸が呟いた。光忠も同じように卵焼きに箸を伸ばし、二切れ残されていたうちの一切れを自分の口に放り込む。じゅわりと広がるだしのうま味、遅れて届く甘み。鶴丸を見ればほころばせた顔がもはや溶けるように崩されていて、なんだかおかしい。
 けれどこの顔を光忠はすでに知っていた。大倶利伽羅も、この卵焼きを食べたときに同じような顔をする。もちろん、感情表現の乏しい彼のことだから鶴丸に比べてずいぶんと控えめではあるのだけど。
 その顔を思い出し、光忠も目を細めて、同じ顔をする。
「くりちゃん、甘い卵焼き好きだからね」
「ああ、あいつ、好きだよな……親御さんも卵焼きは甘い派だったか」
 空き缶を手遊びの相手に選んでころころと転がしていたが、リビングにある仏壇に目を遣る。大倶利伽羅が両親と死別して何年か経った今、彼を両親と繋ぐものはほとんどなくなってしまった。生家を離れ、手に持てるほどの遺品とこの仏壇くらいのものだ。
 きっと寂しくないことなどない。それは光忠にも、鶴丸にもわかる。けれどそれを口には出さない彼に出来ることなど、勝手に焼くお節介くらいのもので。
「……僕、結構、がんばったよ。彼が一番よろこぶ味に近づけるの」
「知ってるよ。光忠は塩味の方が好きだと言っていたことも」
 鶴丸の指が、手が、光忠の髪を梳く。それは先ほどくしゃくしゃと掻きまわしたときの手つきではなく、ただ光忠を慈しみ、労う意志を持った、優しい手つきだった。赤ら顔でへらへらと笑ってみせる鶴丸は明らかに酔っているのに、きっとこんなもの酔っぱらいの気まぐれなのに、思わず目がしらが熱くなる。つんと鼻先を痛みが掛けていく。
 やめてよ、となんとか絞り出した声と無理に作った笑顔で手を払うと、何もかもを判ったような顔で鶴丸は笑って手を下ろした。
「今度は光忠自身の味を教えてくれ」
 そう添えて、話題を変えるようにビール缶に手を伸ばす。光忠もその目線の届かぬように隠れて目元を拭う。
 伝わっていたのだ、と思う。この長兄にはわかられていた。彼をいたわるつもりだったのに、不意打ちを食らってしまった。こういう唐突な驚きをもたらされては、どうしても涙腺が緩んでしまうが泣いてはいけない。泣いてしまっては、格好がわるい。
 唇を噛み締めて、意を決すると霧の晴れたような笑顔を見せた。
「今日のお弁当で作ってあげる。くりちゃん、今日は学校もバイトもないからお弁当要らないし」
「お、楽しみだな! さあまだ飲むぞ!」
 同じ晴れ晴れとした表情で応えて見せる鶴丸の、その声の朗らかで大きいこと。背後でガタ、と扉が開いたことにも気づかず、飲み干すようにビールを煽る。
 あ、という光忠の声に気付いて視線を追って振り返って見れば、眠そうに目を瞬かせる大倶利伽羅の姿があった。
「何時だと、思っているんだ、大きい声で……目が覚めただろう」
「……何時だ、二時か、二時まわっているか、三時近いな」
「うーん、なんというか、ごめん」
 光忠と鶴丸がほぼ同時に時計を見てすっと酔いが引くのと、大倶利伽羅が机に並んだ空き缶の量を見て溜息を吐くのはほぼ同時だった。
 その後は、ふぁとあくびをかみ殺しながらも大倶利伽羅が見張るようにそこに立ち続ければ、慌てた兄二人はガタガタと忙しなく片づけを始めるだけだった。
 空き缶はまとめて部屋の隅へ。飲み残しや未開封の分は冷蔵庫に放り込んで、皿は軽く水を張っておき翌朝洗うことにする。一切れだけ余っていた卵焼きは光忠の手によって大倶利伽羅の口に押し込まれた。
「くりちゃん、美味しい?」
 卵焼きを差し出すために使った箸を流し台に戻しながら光忠が尋ねると、大倶利伽羅は不本意そうにしつつも黙って頷いた。親の味にも似ているその卵焼きはやたらと美味しくて、怒る気もなくす。そうあからさまに見て取れる表情でもごもごと口を動かす大倶利伽羅を見て光忠も鶴丸も密かに口元を緩ませた。

 リビングの電気を消し、三人そろって眠りに就くまでのわずかな間。光忠が「今度、塩味の卵焼きを作ってみようと思うんだけど」と呟くと、小さくそっけない声で「良いんじゃないか。光忠の作るものはだいたい美味い」と返された。そしてその声の主とは別の人がふふっと笑うような息をもらす音。
 先ほどこらえたはずの目がしらの熱さと鼻の奥の痛みが、わずかにぶり返したような気がした。
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