春の竜が泣く

 優しい風が吹いているような気がした。
 それは夜のことで、以前の彼ならば決して気づかなかったであろう程のわずかな気配だった。風のにおい、温度、髪がなびいて肌に触れる心地。それらすべてが、けれど、今の彼には違って感ぜられたのである。
 大倶利伽羅は開け放していた襖を閉め、灯明を消す。自分一人に与えられた部屋の中に風はもうなくなったがそれでも何故か空気が違った。優しい空気だ。頬に触れる空気は冷たくない。むしろ、意識すればどんどん暖かく思える。それは燭台切が、そっと自分を手招きしてしたり顔で鍋の蓋を開けたときの、甘い湯気のような。それは鶴丸が、泣きべそをかいた幼い自分をあやそうと頬に当てた大きな手のような。
 懐かしいことを思い出した、と一人嘆息すればまだまだだと誰かに教えられるように様々な記憶がよみがえる。伊達にいた頃は光忠の背を追うばかりの子どもで、彼がいなくなることに対して折り合いもつけられずに貞宗や国永に縋ってばかりで。ああそういえばこの夜のにおいは伊達の夜のそれに似ている。
 じっと目を凝らす。見えるのは金色がかった部屋の様子のみだ。けれどそこには幼い彼自身と、今より少しだけ若い燭台切、太鼓鐘が映る。——夜であろうと、政宗公をお守りするんだよ。燭台切の声がありありと大倶利伽羅の耳に届く。頷いたのは本体を抱いた太鼓鐘だけだったが、小さな自分は何も持たず、けれど部屋の真ん中を見ている。
 ——夜は怖いか。
 幼い自分が彼に尋ねる。首を振って応える。もう守れる、と呟くとその小さい体が二尺を超える刀に成り替わった。ころん、と音を立てて目の前に転がったそれは間違いなく無銘の刀で、その代わりそばに見えたはずの二人はどこにもいない。
(眠れない夜、とは、こういうことか)
 昨日までは夜と言えば暗闇で、目を瞑って寝具の中に丸まって、眠って夜明けを待ったのに。眠る必要もなくなった夜に手持無沙汰では何をすべきかわからない。くるくると周りを見遣るがやはりそこには鶴丸はおろか燭台切も太鼓鐘もいない。怖くはない。もう守れる。しかし、この胸をすり抜ける風のような感情はなんだろう。
 かつて政宗公が自分を佩いたときのように構えて見せる。そう、鞘は反りを天に向けて、順手に、斜高く、刃筋とそして眼光に竜神を乗せて走らせるように。戦いかと思ったのか、左腕に昇る竜がわななく。カタリと刀が震える。怖くはない、今なら見える、なのに、なのに。
 その瞬間だった。頬にあの暖かい手の感触があった。そしてそのまま頬をゆっくりと撫でる鶴丸の声が脳内に響く。——そうだ、良い子だ。お前は強い刀だ。俺のような太刀でなくとも、強く、誉れ高く、美しい政宗公の刀だとも。貞宗に並んで冬の長い夜を耐え忍び、夜明けと花を運ぶ春を背負った「刀」だ。
 明かりなどなくても、金色に煌めいて見える夜。揺れた視界の隅でぽとり垂れた雫でさえ暖かい気がした。その彼の周りをふわりと優しい風が包む。
「ああ、何か物音がするから眠れないんじゃないかと思ってお夜食持ってきたけど、正解だったね」
「なんだ倶利坊、昔みたいに泣いているのか」
 背中に当てられた手は確かな感触をもってして大倶利伽羅を優しく撫でる。今度は俺がお前たちを守ろう、としゃくりあげながらも伝えられた言葉は二人の笑みによって一蹴された。僕も一緒に戦うよ、日中は俺に任せてくれ、と。
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