鬣に、花

一、折れてはならぬ

 三日月宗近は折れてはいけない。
 何度聞いた台詞だろうか、とぐるり渦巻いた感想を米粒と一緒に飲みこんで、獅子王は膳に目を落とした。三日月宗近は折れてはいけない、だから戦には出さない。毎朝のように確認されるこの家におけるしきたりは、主に新参のためのものであって古参である獅子王には聞き飽きた台詞だった。
 朝食に出された魚の小骨が喉につっかえているような、吐きだしたくても吐きだせない感情を、ふっくらと炊かれた白米を口に含むことで蓋をする。
 ちょうど隣に座していた和泉守が「お前、綺麗に飯食うなあ。ところで三日月宗近ってどこにいんだ?」と、ぼろぼろと魚の身を零しながら言うので、黙って食えとばかりに首を振った。
 背筋を伸ばして、じょうずに箸を持って。自分の中に刻み込まれている源頼政の姿を真似るのは、大往生であった彼への敬意か、または。
 ズッ、と獅子王にしては珍しく音を立てて味噌汁と啜り、椀を置いて静かに手を合わせる。ごちそうさま、と呟くと和泉守が不思議そうにこちらを見た。
「なんだ、今の」
 口の端についた米粒や味噌の滓に獅子王は眉尻を下げて笑う。
「飯食ったときの挨拶だ。覚えておけよ、国広はこういうのうるせーんだから」
 膳を先に下げてしまおう、と腰を上げた獅子王を、和泉守はまだ不思議そうに見上げる。口をつけられる前の中空に向いた箸からぽとりと青菜が落ちた。
「国広、ここにはまだ来てねえんじゃなかったか」
「……ん。そうだったなあ」
 魚の骨が、喉につっかえているようなあの感覚。それをまたもここで思い出す。獅子王は口をついて出かかった溜息を喉の痛みをこらえて飲みこみ、和泉守の顔を見ずに席を立った。無言のまま膳を下げ、その足で本丸へと向かう。
 獅子王たち一般的な刀剣男士は普段三の丸で日常を過ごす上に一番隊隊長以外の出入りは基本的に禁じられているため、ともすれば一度たりとも訪れることなく刃生を終えるやもしれぬ一角だ。
 その本丸を囲むようにそびえたつ二の丸を跨ぎ(ここには三日月宗近を除く名刀の幾振りかが暮らしている)、本丸の勝手に寄り、膳をもらう。
 そして目当ての部屋の前へ。その部屋の襖は一面黒く塗りつぶされ、光は入らぬようになっている。
 ごくりと唾を飲みこむ。喉の痛みは増しているようだった。黒い襖の奥ではしゅるりと絹が鳴る。思わずこうべを垂れる。膝をつく。三日月様、とまるで口にすれば呪われてしまうかというような面持ちで絞り出した。喉だけではない。胸が痛い。
 入れ、とあの優しい声がすると獅子王は鼻の奥がぎゅうっと締め付けられるような苦しさを覚える。
「お食事をお持ちしました」
 襖を引けば最奥にいる三日月は目じりを下げてその月を細めて、きわめて優しい顔で獅子王を見やる。明かりは灯されているものの、後ろ手に襖を閉めれば夜が訪れたような暗がりに落ちるその部屋で、三日月の目と獅子王の髪だけがわずかな光を集めてきらめいた。
 その陰に隠れて、三日月は眉を下げる。
「こちらに。それにそのようにかしこまらんでもよい。ここでは俺の方が新参だろう、なあ、獅子王」
 びくり、と獅子王の肩が震えた。名を呼ばれたその瞬間だった。名を呼べば呪われてしまいそうなほど美しいひとが、自分の名を呼んだ。それだけのことだった。けれど獅子王にとって、この城で生きる身にとって、その重みは計り知れない。
 獅子王は言われるがままに膳を三日月の目の前に置き、そっと息を吸い込む。呼吸を止める合図のような、すぅ、という空気の揺れを感じた三日月が手に取りかけた箸を置いた。しばらく待つと、獅子王は迷ったようにへらりと困り顔のままで笑いながらぽつりと言葉を吐きだした。
「そういうわけにはいかねえんだよ、じーさん。三日月様、は代えがないから」
 曲がりなりにも獅子王の笑みを見、そして言葉を聴けたことで三日月は一抹の安堵を覚えた。胸に落ちるのは汁物の中に散らされた金箔のように腹に溜まらぬ安心感であったが、今はそれでよい。
 箸を手に取り、手短に、しかし獅子王の求める老爺たろうと悠然にものを口に含む。咀嚼する。味がしたことはない。
 しかしその仕草を見て獅子王はほっとしたように息を吐く。いつもの報告だけど、となんでもないような明るい声色で切り出された話題に三日月は一度箸を置く。それを待って、獅子王は続ける。
「昨晩の出陣で堀川国広と和泉守兼定が折れた。和泉守兼定はその後すぐに代わりを拾った」
「国広はまだか」
「行ったのは厚樫山だったから……次が来たら、もう五振り目になるな」
 獅子王が三日月から目を逸らした。しかしその口はまだ勝手に言葉を紡ごうとする。喉はいまだ焼けるように痛む。これが仲間への弔いになるのだろうか、と獅子王は頭の隅で思った。
 一体幾人の死を見てきただろう。じっちゃん、その後に自分を大事にしてくれた土岐家の人々、ここに顕現してからも幾振りの。それでもなお悼む方法を知らない。
「そう、鍛刀では久しぶりに平野が出たぜ。前田も喜んでたし、さっそく池田屋に向かうって言ってた。国広も拾えるかもしれねーな!」
 これからも破壊を目前にし続けるであろうに、自分は、まだ知らない。獅子王が顔をゆがめて笑うと三日月は黙って手を伸ばした。獅子王の抵抗する間もなく腕を引き、彼のからだを胸に収める。
 軽い、軽いと言われながらもやはり男児のからだを持った彼は三日月の胸に心地よい重みをくれる。しゅるりしゅるりとこぎれいな、どこかこそばゆい音と共に背を撫でられ、獅子王は黙って彼の胸に自分の顔をうずめた。もう何も言う気にはならなかった。
「獅子王、おまえは折れてくれるな。おまえの代わりなどこの三日月宗近、欲してはおらん」
 黙って頷く。髪が三日月の絹に触れてくしゃりと鳴いた。泣けば良いのに、と三日月は思うがそれもこの仔獅子の強さなのやもしれぬと思い直して言葉を変える。
「ああ、そうだ、この部屋は薄暗くてかなわん……花をくれんか。明るい、光を受ける花がよいな。毎日お前が出陣する度に、花を一輪でよいから摘み帰っておいで。そうして爺と共にこの部屋を花で埋めよう」
 編まれた獅子王の髪に三日月が指を添わせると、わかった、と蚊の鳴くような細く痛々しい声が上がった。折れないよ、俺。背に回された腕が強く強く自分を求めるように力を込められるので、三日月はやっと生きているような心地を得る。

 三日月宗近がこの城へとやってきたのは、獅子王がもう最古参となってしまってからのことだった。
 よく生き残った、と獅子王自身も自覚するほどに城の入れ替わりの激しさは異常だった。まともに行われない手入れ、疲労をかえりみない出陣、満足に与えられない装備。肯定すべき運営などどこにも見当たらない。それでも所詮はモノであった彼らに否定と反逆の意志はなかった。  そうした中では、弱い者はみな折れていく。獅子王は運が良かっただけだったのだ。初期から現世に顕現したため、練度違いの相手に刃向うはめになることもないまま育った。
 軽いとはいえ太刀だったことも一つの勝因だろう。脇差や打刀には貫けぬ敵を斬り誉を取っては自らの練度に変える。そうして誰よりも早く城内最強の座にのし上がった。
 しかしその代償とばかりに、仲間の破壊を、死を、仲間以上に多く見てきた。代えを造りにくい刀は折れてはいけないからと二の丸に押し込められるところを見るのも、代えが出来れば折れてもよいからと無理な出陣を繰り返されるのも、慣れるほどに。
 三日月宗近を見つけたのは、そんな悼みの感覚も潰えた頃だった。厚樫山の最奥部に捕えられていたところを救いだし、再会を喜んで連れ帰った。
 けれど当然三日月の代えなどそうたやすく作れるものではない。その貴重さと美しさ故に、彼は守護神のように、美術品のように、幽閉されるように二の丸さえも超えて本丸へと閉じ込められた。
 その世話を焼く任には獅子王が宛がわれた。他の練度の低い者では明日にも折れるかもしれぬと懸念されたためだ。
 もちろん獅子王とて折れぬ保障があるわけではない。しかしその練度の高さからして先が短いわけでもない。それに過去、博物館の中で同じ空間を共に過ごした記憶もある。その頃から仲が良かったことは鳴狐のお墨付きだ。
 獅子王は上手くやっていた。折れる恐怖と格別の扱いを受ける彼への畏怖、そのふたつを抱いていながらも獅子王は城内最強最古参としての働きと三日月の世話をやってのけていた。
 獅子王さえ折れなければ、良かったのだ。
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