海原と光

一、美しくない

 三日月宗近は、たいそう美しい刀である。
 そうと知っている獅子王は、膳を持ちながら、いつも心の臓がぎゅっと冷やされるような、呼吸も出来なくなってしまうような、胸の痛みを覚える。しかしそれもなかったことにして、この膳を届けなければならない。膳に乗ったひなげしが落ちぬよう、ゆっくりと床に置き、襖の前に三つ指をつく。
 三日月様、と呼んで返事を待つ。しかし訪れるのは静寂のみで、返事はなかった。もう一度失礼しますとだけ断って深い黒色の襖を開く。行燈の光がちろちろと消えかかっているのを確認して、獅子王はまた心に暗幕が落ちるような、何かものを壊してしまいたくなるような心地を覚える。
 行燈の足元で髪も衣服も乱れさせて手足を投げ出している三日月宗近の側に膳を置き、一輪のひなげしを手に握らせる。そしてほとんど手をつけられていない昨晩の膳を持ってすっくと立ち上がり、片手で油皿に油を注いではあたりに散っている枯れた花を掻き集めた。
 そこで小さな声がする。
「いつもすまぬ。……下がってくれ」
 決して名前を呼んでくれはしない彼の、細く、弱く、儚い声。獅子王は黙って彼に背を向け、部屋の外へと歩みを進めた。
 この声がする度に、まだ生きていた、まだ大丈夫だと安堵すると共に『過去』の自分への感情が胸を塞ぐ。三日月はそんな獅子王のことも露知らず、蹲り、ひなげしを抱えている。
「獅子王」
 懐かしい声がその名を呼んだ。しかし呼ばれたはずの獅子王はぴくりと肩を震わせひと時動作を止めただけで、振り返ろうとはしない。関係ない、とまるで自分に言い聞かせるように呟き、くらい表情のまま歩みを進めるしかなかった。獅子王は彼が自分を呼んではいないことを知っていた。
「獅子王、そちらは安らかか。底根の国に花は咲くか。夜を照らす月はあるか……」
 遠く背後で優しい声色が、自分ではない、獅子王を呼ぶ。朝夕、一日に二度、別れの悲しみを突きつけられる三日月様はもうすでに壊れてしまった。初めて訪れたときは、闇夜の中に静かながら暖かい行燈の光とたくさんの花に囲まれて恐ろしいほどに美しく座していたはずなのに、もはやこの有り様だ。
 枯れた花と、消えかけた灯明、黄ばんだ絹の衣を纏う彼は獅子王の知る三日月宗近ではなかった。三日月宗近は美しい刀だ。天下五剣に名を恥じぬ、強く、煌めく刃だ。そうと知っている獅子王は、いつも胸が痛む。いっそはらわたのすべてを斬り出してしまえばと思う程に。
 獅子王、とまだ名を呼ぶ三日月に背を向けたまま、獅子王は足音を忍ばせて、そっと部屋を出る。出陣が控えている。行かなければ。
 下げた膳は本丸内の勝手に返し、無言のまま二の丸に移り、その内部を突き進む。ここに暮らすのは三日月宗近を除く名刀のいくつかで、鶴丸国永や一期一振、そして蛍丸など入手難易度も高い刀達だ。
 この城では、折れても良い刀と、折れてはいけない刀がある。
 前者は獅子王を筆頭にした拾いやすい太刀と、鍛刀しやすい打刀以下の刀。後者は三日月宗近を代表とする美しく、入手しづらい刀である。前者は折れても良いのだからと出陣を強要されているし、後者は折れてはいけないのだからと二の丸、本丸に幽閉されるように暮らす。
 しかしその折れてはいけない刀にも代えができると出陣を許されるようになる。つい最近(といっても、先代の獅子王が折れる前)で言えば、蛍丸が代えを拾えたために出陣するようになった。
 二の丸の奥、草花の描かれた襖の前で獅子王は中にいる者に呼びかける。
「蛍、蛍いるか」
「ん……いる、行くね」
 少し眠たげな返事があり、そのままそこで待つ。蛍丸と獅子王は同部隊であり、今から出陣することになっている。
 しゅっと軽い音と共に襖が開き、身支度を整えた蛍丸が自分を見上げてきた。行こうか、と小さな笑みを零して、獅子王の手を引いて三の丸の方へと向かった。とてとてと歩く音が響く度、この拙い足取りで敵を倒せるのかと思うが、さすがは大太刀といったところだろうか。特に蛍丸は大太刀の中でも速く、そして強いために練度が低くても上手く生き残り折れずに育ったと聞く。
「今日はどこ?」
「鎌倉、元弘の乱だな……検非違使も出ないとこだし、まだ気楽に行けるだろ」
「最近厚樫山行かないね。ところで、ねえ、国俊は?」
 引かれた手がぎゅっと握られる。二の丸にいる蛍丸も、三日月とそう大して境遇は変わらない。二の丸内での交流も少ないと聞くし、三日月と違って世話役もいない分、より不幸なのかもしれない。
 手を同じように握り返し、しかし何故か胸の奥に痛みを感じる。キリキリと締め上げられるような、息の詰まるような、痛み。冷や汗さえ感じながらなんとか絞り出した声はどこかかすれているようにも聞こえた。
「まだ、折れたまま、来てない。あと明石国行も一度も顕現してない」
「そう……そう、そっか、よしっがんばろうね!」
 にぱ、と振り向きざまに咲いた笑顔に獅子王は思わず同じ笑みを浮かべる。しかし胸の奥は痛んだままであった。

 三日月宗近の世話役にと獅子王が選ばれたのは、ただ、先代の獅子王が世話係をしていたからであった。
 先代の獅子王は誰よりも強く、果敢に敵を斬り、仲間を守った誇り高い剣士であったと聞いている。折れる者の多いこの城の仕組みに誰よりも胸を痛めていた心優しい者である、と。
 その写しであろうと決めたのは確かだ。同じ名を背負い、同じ刀を振るうのならばその魂も同じでなければならない。実際獅子王はよくその務めを果たした。まだまだ練度は低いからと仲間に庇われながらも凛として部隊を率い、敵を斬り、折れた者を弔った。
 けれどその努力も苦しみも、三日月宗近の美しさの前では、三日月宗近の悲しみの前では何も意味を為さない。三日月の知る獅子王は、自分ではない。それが身を斬られるような痛みとなって胸を襲う。せめて先代の獅子王と三日月の間に何があったのかだけでも知れればどう振る舞うべきかわかるだろうか、と思ったが彼は決して自分には心を開かず、また、先代は誰にも彼のことを話してはいなかった。
 比較的先代とは近くにいたという蛍丸(同部隊であったために『獅子王に守ってもらった、育ててもらった』と深く恩義を感じてもいるらしい。折れなかったのは自身の強さ故だろうに)でさえ、獅子王の口から三日月の話を聞いたことがないというのだからよほど口が堅かったのだろう。
 手がかりは、先代が残したたった一枚の覚書。表に『三日月様をよろしく頼む』、裏に『俺へ、膳には必ずひなげしを添えてくれ。三日月様へ、これは俺の分』と書かれた紙切れだ。
 三日月様、との呼び方に違和感を覚えるがきっと先代はそう呼んでいたからそう書いたのだろう。昔同じ博物館にいたときはじーさんと呼んで親しく思っていたことは、一振り目の獅子王と二振り目の獅子王に違いはないはずだ。それなのに何故過去の自分は彼を三日月様と呼んだのか。三日月様と何があったのか。考えても答えは出ないが、教えてくれる者もいない。
 獅子王に出来ることと言えば、せめてあの美しくも醜い鋼になってしまった三日月様の幸せが何なのかをぼんやりと考えてみては答えも出せずに目前の敵を斬るだけであった。



二、海原と光

 思うよりも早く、愛染国俊は鍛刀された。けれどそれは獅子王や蛍丸が出陣している間のことで、顕現したばかりの彼は同じ短刀達に手を引かれ、夜戦に向かったという。
 出陣帰りにひとまず三の丸へと足を踏み入れた蛍丸はそれを聞いて、一度はぱっと顔を明るくさせたものの夜戦と聞いて血がにじむほど唇を噛んでいた。隣にいた獅子王も三日月に手渡すために摘んだひなげしの花を握りつぶしてしまいそうになる。
 生き残れる、はずが、ないだろう。
 隣に蛍丸がいることは重々承知していた。だから口にはしなかった。けれど代わりに出せる言葉もない。
 夜戦となる舞台は現在池田屋に限定される。特にその道中にあたる三条大橋では同じ来派である明石国行も保護可能な合戦場であるが、その敵は固く、そして速く、検非違使と戦わずとも折れる可能性が存分にあるところだった。その中に鍛刀されたばかりの、子を、入れては。
 ちらりと蛍丸を盗み見て、そっと背中に掌を当ててみるとやはり彼は小刻みに震えていた。大きな瞳いっぱいに涙をためて、そして見上げる。
「お願い、部隊が帰城するまでここにいさせて。あそこに居ては何も知らされないから」
 黙ったまま頷き、とりあえず少しでも体を休められるように、重い刀を置けるようにと自室に案内する。先代が使っていたときのまま配置は変えず、物も増やしてはいない。相も変わらず暗く寂しいがらんとした部屋だ。覚書は三日月に渡してしまっているから、本当に何もない。
 蛍丸はそこに言われるがまま軽く衣装を崩して本体を置き、すとんと腰を下ろしたものの落ち着かない様子であたりを見回した。獅子王もそばに本体を置いて蛍丸の様子をじっと見守る。一周か、二周か、視線をぐるりと回した蛍丸は何もないねと細い声で言った。
「花、って、いつもどこにやってるの? 前の獅子王も、今の獅子王も、いつもお花摘んで帰ってたよね」
 花。喉に詰まったように言葉が出ない。枯れた花と、地に落ちたような三日月の姿が脳裏をよぎる。蛍丸も愛染を失えばそうなるのだろうか。蛍丸は強いから、きっと今後も生き残るだろう。強くなって、どんな敵だって斬って、倒して、城内では折れていく仲間のことを待ち続けるだろう。それさえ出来ない三日月とどちらが不幸だろうか。どちらもか。
 一緒に持ってきたひなげしは後ろ手に隠すようにしてごくりと喉を鳴らして一度詰まった言葉を飲みこむ。すっと息を吸い込み、もう一度笑って言ってみれば思うより声は震えなかった。
「花は、三日月様のところに持ってくんだよ」
「そうなの? じゃあ三日月宗近のお部屋はお花でいっぱいだね。……俺もそうしようかな。寂しくなくて、良いかも」
 寂しそうに笑った蛍丸に、寂しくないものか、と思うが口にはしない。
 返事をしない獅子王のことも気にせず膝を抱えて蛍丸はそこに顔をうずめた。そして獅子王に届くか届かないか、ギリギリの声で呟く。
「こうやって待ってたって、国俊、ここでの俺のこと、知らないのにね」
 今度こそ返す言葉をなくして、獅子王は三日月様のところに行く時間だから、このままここにいてくれて良いからと乱暴に言い残して部屋を出た。

 三日月の部屋はどこか潮の匂いがする、と思う。実際にその匂いがするわけではないのだが(本物なら鎌倉の地で嫌と言う程嗅いでいる)、部屋の空気を上手く言葉にするなら潮の匂いというのが一番良い。三日月の住まう場所は、枯れた花の浮かぶ海だ。
 ひなげしを手渡し、膳を取り換える。明かりも付け直して下がってくれと言われるまでいつも通りにこなし、けれど獅子王はそこから動かなかった。帰れば蛍丸がいる。蛍丸は強い。強いし、それに、愛染国俊を知らない。三日月のように獅子王しかいなかったわけではなく、むしろその逆で愛染のことだけ知らない。それでも蛍丸は愛染が折れたと知れば、今以上の悲しみに暮れるだろう。
 もうこれ以上誰も狂う姿を見たくはなかった。
 博物館で見た光を受けて優しく微笑む三日月の姿、この城の中で初めて見たときの花に囲まれ凛と座す姿、獅子王が思い出せる限りの三日月の姿すべてから程遠い三日月を見おろし、呆然と呟く。
「なあ、じーさん、俺、どうしたらいい」
 名を呼ばれてぴくりと肩を震わせたのは三日月の方だった。懐かしい声が懐かしい呼び方をする。獅子王、と答えるように呼びかけると、しゃくりあげるような声が部屋に響いた。
「ごめん、俺、ここでのじーさんのことなんも知らねーけど、でも、」
 その続きは言葉にならず、獅子王自身が口を噤んだ。言葉にならなかった。あの胸を斬るような痛みがずっと奥底にあって、どうしようもないほど苦しい。縋るものもなく、その場に崩れ落ちて嗚咽する。
 ああ、と言葉にならない声が漏れ出る度空気が震えた。そして理解する。これはきっと折れてしまった獅子王の後悔だ。置いていってしまった三日月への。ずっとそばにいれなかったことへの。同じ名を持ち、同じ刀を振るう写しだからこそ判る後悔だ。けれど、写しでは彼の知る獅子王にはなれない。
 泣き崩れる獅子王の肩に三日月の手が伸ばされていたが、しかし触れないぎりぎりのところで踏みとどまって、ゆっくりその手を下ろした。声を殺して涙をこらえる子をあやす方法は知っていても、目の前の獅子王をどう扱うべきか測りかねた。黙ったまま、手も出せないまま、泣き続ける獅子王を見守る。
 一層潮の匂いが濃くなる気配に、獅子王は一つの答えを決める。

 鎌倉という地は海がすぐそばにあって、潮の匂いと風が強い。戦も終わり、のろのろと馬を進めて帰城を目指す中、ぼんやりと海を横目に眺めていた獅子王がこれでは錆びてしまうと呟くと、蛍丸はふふ、とほのかに笑った。
「俺、だからね、海に沈んでるんだ」
 黙ってそちらを向けば蛍丸は根の国は海にあるんだよと言って、潮風を浴びた髪を押さえた。
 案の定愛染国俊は折れていた。また、明石国行の顕現には失敗した。それを聞いた蛍丸は、取り乱すこともなく、そっかとだけ言って一筋の涙を流した。部隊が連れて帰った半分に割れた体を受け取っても何も特別なことはなかった。ただ静かに、お疲れ様、今度は一緒に遊ぼうと笑い、庭先にあった木苺の白い花を赤い髪に挿した。
 その後の愛染は蛍丸たっての希望で墓を建てたりするわけではなく、近場の海に流された。理由を聞けば黙って微笑むだけであったが、こうして戦の帰り、言ってしまったということは何かを望んでいるのだろう。
 他の隊員からは少し距離を置きつつ蛍丸に近づくと、やはり蛍丸は苦しそうな笑みでもって獅子王に頼み事をひとつ寄越す。
「ねえ、お願い。俺が壊れたら、必ず国俊と同じ海に流して。知ってる? 海の底から見上げるとね、光が蛍みたいできらきらして、綺麗で、絶対、寂しくなんかないから」
 お願い、と付け足す蛍丸に必ずだと約束を交わす。出来れば果たしたくない約束だと思ったことは、腹の奥の痛みと共に飲みこんだ。



三、海原に落ちる、月

 膳には必ずひなげしを添えてくれ、と言われていたのにもうひなげしは咲かなくなってしまった。
 この紙切れ一枚に託された約束のようなものが、唯一獅子王の在り方を先代に繋いでいたのにとっくにそれすら叶わなくなっていた。季節はあれからひとつふたつと巡って、彼岸も過ぎた今、空気はすっかり冷え冷えとしている。庭先には夏の残り香のような生ぬるい風がときたま吹くが、ほとんどは木枯らしのように冷たく鋭い。
 けれど、それでも花は咲く。獅子王は庭に下りて、ちょうど目についた花をひとつ手折った。傷のついた手で形をなぞる。この花の名前は、と思い出そうとしたところで背後から出陣だ、と声を掛けられた。
「獅子王、厚樫山だってよ」
「がんばってきてくださいね」
 夜戦帰りだろうか、ところどころほつれ、血のついた和泉守兼定と堀川国広が並んでこちらを呼んでいる。彼らは何代目なのか考えようとして首を振った。わかったと返事をするついでに、先に三日月様のところに行くという部隊への言伝を頼む。仕方ないなと笑い、出陣門の方へと向かう背中を見送って緊張を解いた。
 袖口をぐっと伸ばして傷を隠し、三の丸を出る。

 先代の獅子王を喪った痛手は、決して三日月にのみ降りかかったものではなかった。部隊の戦力としてもかなめになっていた彼の穴を埋めるため、比較的敵も弱く、検非違使もいない戦場を何度か巡った。練度の底上げを行おうということだろう。それが春の事で、出陣先が厚樫山に戻されてからもう久しい。けれど未だに得られるのは三の丸行きの者たちばかりだ。
 蛍丸はあの後も生き残りつづけ、小さいながらも大太刀を振るって部隊を助けてくれている。獅子王自身も蛍丸に助けられながら、傷をいくつも負いながらなんとか生き続けているが、折れる者は折れるのだから、何度か仲間を送ってきた。特に池田屋の面子は入れ替わりが激しい。
 その度に麻痺していくように何も感じなくなっていく心の変質を彼は止められないでいる。蛍丸もそうだった。明石国行はまだ顕現していないが、愛染には顕現しても会うことをやめてしまった。一度だけ長く生き残った愛染国俊がいて、そのときばかりはずっと幸せそうにしていたのに、ある夜折れて帰ってきたときに次の愛染には会わないと決めたらしい。
 次の国俊のことを、きっと俺の国俊と比べてしまうから、と言っていた。獅子王と三日月のやり取りを真似て出陣ごとに花を送り合った蛍丸と愛染の部屋は今、枯れた花と、どこからか漂う潮の匂いに満ちている。その中で彼は俺も早くあの子の蛍にならなきゃねと言って笑う。
 その笑みを思い出しながら本丸に足を踏み入れ、いつも通りの順序で三日月の部屋に上がる。久しぶりに花を持ってきたんだと言って花を握らせると、三日月は一度目を大きく開いて、そして顔を伏せて隠した。
「彼岸花か」
 呟いた声は震え、獅子王はそういえばそんな名前だったと思い出して笑みを零した。彼岸花。賽の河原に咲く花で、死人花とも言われるそれ。ついでとばかりに思い出した文言があって、獅子王が笑んでいるまま「ひなげしは咲かないから、代わりに。これは俺の分」と伝えると三日月は一層怯えたように震えた。
 三日月は彼岸花ともう一度繰り返して、そして付け足すように呟く。また会う日を楽しみに。
「お前も折れようというのか」
 優しい笑みで、獅子王は三日月に手を伸ばす。じーさん、と呼びかけるとはっと三日月が顔を上げた。肩に触れた手がゆるやかに絹を撫で、しゅるりと音が立つ。音も無く、三日月の目からは光の玉のような涙が伝った。
「違うよじーさん。俺は、間違っても折れたりしねえって」
 笑みを崩さぬまま、三日月の手に彼岸花をしっかりと握らせる。ぽろぽろと落ちてくる三日月の涙は、星の光のようで思わず息を飲む。胸が痛い。美しさと貴重さ故に本丸に閉じ込められた三日月宗近はまだ、きちんと、ここに存在している。腹の底からなにかがじくじくとせり上がる。心の臓をぎゅっと掴まれるような、息苦しさ。
 なんとか息をついて、出陣してくると部屋を出る。そして胸の奥の痛みに、もうすぐだからと言い聞かせるように手を当てて深呼吸を繰り返した。

 潮の匂いのしない部屋の前で膝をつき、こうべを垂れた獅子王は三日月様と部屋の主に呼びかける。入れ、という襖越しの返事を聞いて深い黒の襖を引く。中に座すのは光沢ある絹の着物をまとい、緩やかに笑みを浮かべる三日月宗近ひとり。
「お食事をお持ちしました」
 行燈にはしっかりと明かりが灯されている。後ろ手に襖を閉めれば夜が訪れたような暗がりに落ちるその部屋で、三日月のまわりだけ妙に明るくてああ彼こそが月なのだと妙に納得する。
「そうかしこまらんでよいと言っただろう、獅子王」
「そういうわけにはいかねえんだよ、じーさん」
 軽く言葉を交わし合いながら膳を並べ、食事中も話し相手になろうと獅子王は三日月の隣に腰を下ろす。箸を手に取った三日月はそれを知っているので決して追い払うような真似はしない。
 三の丸で起こったこと、戦の最中のこと、土産話を展開する獅子王を見つめる三日月の目は優しく細められ、ときたまくすくすと相槌のように笑みを零す。獅子王の話の中に先代の獅子王と、三日月の話は出ない。
 先代の三日月に彼岸花を渡したちょうどあの日、獅子王は出陣先の厚樫山にて三日月宗近の写しを得た。勇猛な獅子は部隊を率い、まるで得物を食いちぎるように、心臓をえぐり出すようにして最も愛するひとの器を手に入れた。
 狩りが終わったあとの、爛々と輝いた目をして、まだ魂の入っていない太刀を抱いた彼はそして呟く。これで海に流してあげられる、と。
 折れてはいけない刀も、代えがあれば出陣が許されるようになる。獅子王は新しく得た三日月の刀を手に本丸に飛んで帰った。折れたいか、と尋ねればまた彼は玉のような涙を流して頷いたので、そのまま逃げるように手を引いて海に流した。
 今の三日月に話をしてやりながら、獅子王の脳裏には海に向かって歩を進める三日月の後ろ姿がこびりついている。夜のことだった。雲がないというのに月の見えない夜。涙にも似た潮の匂いが延々と漂っていて、物寂しい景色が続いた。水面には枯れた花の代わりに三日月が浮ぶ。
 底根の国からはあの姿が見えただろうか、と思う。水面に零れた光が、海原に落ちた月が、その身に寄り添ってくれていることを願う他ない。
 そして目の前の三日月に、獅子王は、願う。これが自分の三日月宗近であるようにと。胸の痛みはまだ消えていない。
「んじゃあ、じーさん、俺そろそろ出陣するな」
 箸を置いた三日月に笑みで返し、膳を手にして腰を上げる。見上げるように顔をこちらに向けた目は、決して獅子王の記憶とは違わない美しいものだった。
 きっと彼はこの城には何振りも同じ刀の写しがあることを知らないし、自分が彼の獅子王だと、唯一のものだと認めてくれるだろう。
「ああ、行っておいで。ここで俺が待っていることを忘れてはならんぞ。……その怪我も、直しておいで」
 黙って、仰々しく膳を受け取りゆっくりと部屋を出る。襖を閉め、完全に三日月の視界から隠れると獅子王は胸を押さえて息を吐いた。袖の中に隠したはずの傷を見抜かれていたことに驚き跳ねあがった胸を、痛みをそうしてやり過ごす。
 同じ刀だから判る後悔が獅子王にあるように、もしかしたら三日月にも同じような後悔があるのかもしれない。たとえば、獅子王を折らせてはいけないだとか。
 しかしそれはどうだって良いのだ。獅子王の抱く後悔は、ずっとそばにいられなかったこと。海原の狭間で先代が幸せに寄り添っているのならそれで良い。
 そして自分は、決して彼を置いていくことなく、折れなければそれで良い。
 本丸を出て、三の丸にて戦の準備を整える。一度庭先に降りてから出陣門へと向かう獅子王の足元には鮮やかな彼岸花が咲く。
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